広報誌「CIL豊中通信」Vol.7


も く じ

1. 事務所移転しました
2. 特集:視覚障害者歩行の安全をめぐって 佐木訴訟を語る
3. 緊急投稿第二弾:支援費の課税問題について
4. 地域の作業所の活動を紹介します −えーぜっと、であいの郷−
5. 2003年度第一回自立生活プログラム講座最終報告
6. 学生無年金障害者の活動から part5
7. 「メイちゃん」のつぶやき part3
8. ふー、助かったよ〜!
9. 「おおいに語ろう!」ピア対談 −第1回−
10. 『点検!支援費制度』の講演を聞きました
11. えりとママの珍道中記
12. 摂食・嚥下セミナーA
13. ぼくの日曜日 −尼崎、西宮、芦屋、神戸−
14. 遠くなくても行きたい −なんばパークス−
15. CIL豊中近況
16. サービスのご案内
17. 事業活動報告
18. 投稿作品、お知らせとお詫び
19. 編集後記
事務局
広報誌編集部
岩永清滋
広報誌編集部
全京子
大友章三
メイちゃん
ま〜たれ
和田伸也・全京子
広報誌編集部
えりママ
川崎高弘
海帰優人
西九条舞
事務局
事務局
事務局
乱タロー/事務局
大友章三

印刷版の表紙


1. 事務所移転しました

事務局

 旧事務所の老朽化、事業規模拡大によるスペース不足、豊中市全域にわたる利用者及び活動者の交通利便性などの理由から、事務所を11月5日に移転しました。移転場所はモノレール・阪急電車蛍池駅隣接ビル「ルシオーレ」3階で、改札口から直通で行ける所です。蛍池駅、ルシオーレ共にエレベーター、車イストイレなどがあり、バリアフリーになっています。
新事務所は隣接する2つからなり、それぞれ、「ヘルパーステーションCIL豊中」と「豊中市障害者自立支援センター」です。
 介護派遣の利用、ヘルパー養成研修は「ヘルパーステーションCIL豊中」へ、豊中市障害者生活支援事業、外出支援サービス(リフトカー)、イベント、点字名刺は「豊中市障害者自立支援センター」の方へお願いします。
 また、新自立生活体験室は、蛍池南町(ルシオーレから徒歩5分)にて12月完成予定です。
 スタッフ一同、新たな気持ちで頑張っていますので、これからもよろしくお願いいたします。

  ■NPO CIL ヘルパーステーションCIL豊中(休み 日・火・祝)
   〒560-0033 大阪府豊中市蛍池中町2−3−1−304
   TEL06(6840)8195 FAX06(6840)8196

  ■NPO CIL 豊中市障害者自立支援センター (休み 日・火・祝)
   〒560-0033 大阪府豊中市蛍池中町2−3−1−305
   TEL06(6857)3601 FAX06(6857)3602
    

(文責:徳山)

ヘルパーステーションCIL豊中 豊中市障害者自立支援センター

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2. 特集:視覚障害者歩行の安全をめぐって 佐木訴訟を語る

広報誌編集部

はじめに
 
 みなさんは「佐木訴訟」をご存知でしょうか。
 これは1999年4月に始まり、2003年6月末に和解が成立した裁判で、原告は佐木理人さんという視覚障害者です。そして被告は大阪市交通局でした。1995年10月21日、佐木理人さんは地下鉄御堂筋線天王寺駅のホームを歩いていて、ホーム端から転落し、電車にひかれるという事故に遭いました。このときから佐木さん、そして視覚障害者のみんなにとって安全な鉄道を実現させるための、長い長い戦いが始まったのです。
 事故から8年、ようやく和解という一応の到達点にたどり着いた原告・佐木理人さんを、今回、私たちは取材させていただくことにしました。
 視覚障害者にとって安全な鉄道はどうすれば実現できるのか、今一番何が必要なのか、それをみなさんと一緒に考えていく良い機会になればと思っております。当日は、広報誌担当の根箭、そして当センターの視覚障害者ピアカウンセラーで、この訴訟とも深く関わっていた和田伸也の2名が佐木理人さんとお会いし、お話を聞かせていただきました。
 それでは以下、佐木さんご本人の語りという形の文章で、つづってまいりたいと思います。

1.プロフィール

 私は大阪市で生まれまして、先天性の弱視でした。病名は緑内症です。
 地域の幼稚園に通いまして、その後は大阪市内で弱視教育をしている小学校が2つあるのですけど、そのうちの1つに行きまして、同じく大阪で唯一弱視教育をしている中学校に行きました。当時までは左目が0.1で、右目は光が分かる程度は見えていたのです。矯正はきかないのですが、目の保護のためにメガネをかけていました。でも、歩けても黒板の文字を見る時は短眼鏡を使ったり、教科書はルーペを使ったりしていました。
 中学1年の時に視力が急に落ちて、0.01ぐらいになってしまいました。これはホルモンの関係でホルモンバランスが変わってしまって、目の眼圧に影響したのが原因と言われています。あと、もう一つの理由として、小学6年の時にバスケットボールをやっていて、ボールが目に当たったのですよ。そのときは、一瞬目が見えなかったがすぐまた見えるようになったので、特に問題ないと思い、眼科にも行かなかったのです。それが一種の引き金になったという話もあります。目が見えなくなってきて非常に苦しいので病院に行きまして、これ以上視力が落ちないように手術を受けました。
 中学1年の9月から週に1回、『日本ライトハウス』に点字を習いに行くようになりました。12月ぐらいまでには基礎的なことは終わって、中学3年間は点字と墨字を併用して過ごしました。それから高校だけ東京にある盲学校に行ったのですけど、わりに光は分かる状態でして、道路の白線も見えたし、中学の内は拡大読書機を使って勉強したりもしていました。大学を一浪した後神戸市立外大に入り、神戸市で一人暮らしをしました。2回生の時に光が全然分からないようになって、今では全く見えません。そして3回生の時、1995年になりますが、10月21日に今回の訴訟の発端になる事故に遭ったのですね。
 99年3月に大学を卒業して大学院に進み、2002年3月に修士課程を修了しました。そして仕事のほうでは、99年秋ごろに専門学校で点字を教える非常勤講師になりまして、2000年12月ごろからは、枚方にある『わらしべ会障害者生活支援センター』でピア・カウンセラーの活動もするようになりました。さらに翌年4月から、今おります『Flat・きた』での非常勤ピア・カウンセラーの仕事も始め、相前後して『ピア大阪』でもピア・カウンセラーをやるようになりました。従って現在は3つの団体でのピア・カウンセラー、そして専門学校での講師が仕事となっております。

佐木理人(あやと)さん


2.事故が起こったとき

 1995年10月21日。この日、私は大学に行っていました。私の学部は夜間だったのですけど、21:00ぐらいに授業が終わりました。それで翌日は大阪のほうで、ある試験があったのですね。そのためこの晩は神戸の家には帰らずに、大阪の天王寺にある実家に帰ることにしたのです。そして地下鉄御堂筋線の梅田駅に着き、ホームに下りますと丁度天王寺に行く電車が出発しそうな状態だったので、その場ですぐに乗ったわけですね。
 ところで、当時私は実家に帰るルートで、歩行訓練を何回かやっていたのですよ。その時はいつも、前から6両目に乗って天王寺で降り、先頭方向に歩いて階段を上がり、出口に行くというルートで練習していたのです。
 この日(事故当日)、私は感覚的にはいつもより更に後ろの方の車両に乗ったのではと思っていたのです。そのため天王寺で降りたあと、ホームを前へ前へと進んだわけなのですが、実際に乗っていた車両は前から3両目だったのですね。だから前へ歩いて壁に突き当たったとき、私はてっきりそれが階段の裏側の壁だと思い、向こう側に回り込んで階段を上がろうとしたところ、実はその壁は階段ではなくホームの先端の壁だったのです。そして先端の壁づたいに向こう側に回り込む格好になっていたのですね。その結果、ホームの端から転落し、丁度発車した、今自分が乗っていた電車にぶつかって飛ばされてケガをしたということなのです。
 さて、事故時の職員の対応なのですが、まず電車の車掌さんが、私がホームの端っこにいるのを見てすぐに運転士に連絡、急ブレーキをかけたということです。しかし電車ですから急には停まれませんので間に合わず、転落した私が10数メートル引きずられたところでやっと停止しました。ぶつかった瞬間の状況としては、まず白杖がぶつかったと思ったら次は体がぶつかって飛ばされ、電車が止まったのが分かって「生きてるな」と思い、助けを呼んだのです。手足の骨が折れ、頭を33針ぬうケガとなりました。事故にあったそのときは痛みとかは全然なくて、人が来て担ぎあげられたときに初めて手足が痛いという感覚を覚えました。多分、足とかはぐにゃぐにゃになっていたと思います。

3.回復に向けて

 事故後入院した私は、先ほど言いましたように頭を33針縫い、95年12月になって、ようやく車いすで移動ができるようになりました。そして96年の6月に歩けるようになり、翌7月に退院しましたが、その後もリハビリのため通院が続き、また手と足にはチタンのプレートを入れた状態でした。大学の方は、その年一年間は休学する結果になりましたね。そして97年2月に再入院しました。このときは大学に早く復帰できるよう、チタンのプレートを抜くためだったのですが、抜く際に足の骨がまた折れてしまったのですよ。まだ折れやすい状態であることを、医者がレントゲンを見ても分からなかったのですね。これは診断ミスということで、そのために結局入院期間が6月までとなってしまい、もう大学は辞めようと思いました。だけど指導教官とか友達とかが、「そんなん言わんと」と言ってくれまして、何とか6月に退院して以降、最後にもう一度リハビリ目的で入院し、9月に退院してその月に大学に復学することができました。

取材風景(左側は和田伸也さん)


4.訴訟への動き

 訴訟をすることは、事故以降ずっと頭にありました。しかしそれよりも、自分として直近に迫っていることを片づけていきたいという心境でした。教育実習にも行く予定をしていたので、それも実行したかったですし。学業や体の回復といった、優先的に考えたいことがありましたので、どうしようかいろいろ迷っていました。そして、ようやく卒業も見えて落ち着いてきたので、訴訟のことを本気で考えるようになったのです。そしたら、「大阪弁護士会がやっている『市民の法律相談』というのがあって、身体障害者手帳を持っている人は無料で受けてくれる」という話を聞きまして、早速受けてみました。するとそこで言われたことが、「民事訴訟は事故発生から4年で時効になることが多い」だったのですね。既に事故後4年目に入っておりましたので、まずは何とかこの時効を消さなくてはならないということになり、「この話をうちで持ち帰りましょう」と言って下さったのが、私の訴訟の事務局を担当してくれた岸本達司弁護士でした。そして岸本先生からいろいろな人に呼びかけをしてもらって、全部で7人が集まりました。その後、弁護団長をどうしようかという話になり、竹下芳樹さん(視覚障害者の方)になっていただいたのです。98年秋に相談に行って、約半年の準備期間を経たのち99年の4月に提訴しました。いざ裁判を起こすという時まで、精神的な負担もそれなりにありましたね。「個人としてではなく、諸団体として裁判をした方がいい」とか、その他いろいろ周囲からアドバイスを受けたこともありましたが、結果的には私個人として提訴するに至りました。そして『視覚障害者の歩行の自由と安全を考えるブルックの会』という団体が、支援団体となってくれました。

5.第一審(大阪地裁)→敗訴

 99年4月に大阪市交通局を相手取って訴訟を起こし、第一審が始まりました。ここで争点になったことは、以下の2点です。
 一つは、被告(大阪市交通局)において、駅の設備がきちんとしていたかということ、そしてもう一つ、これは大阪市交通局側が問題として出してきたことなのですが、原告(私)の歩行に問題がなかったかということです。
 まず一つ目ですが、駅の端に柵は設けられていませんでした。そして交通局側が言うには、「もし柵をつけてしまうと、電車が停車しようとしてオーバーランをしたときに、電車の扉と柵が重なってしまう。そうすると、不特定多数の人を輸送する交通機関として、きちんとしたダイヤが保てなくなる」ということです。大阪市交通局には内規というものがあって、曰く、「電車がホームにいったん停止したときの、前方5メートルと後方1メートルには柵をつけない。理由は手前に停まり過ぎることはめったにないが、向こうに行き過ぎることはあるから」ということです。御堂筋線の天王寺駅前方部(列車最前部〜事故現場)は、5メートル20センチあるので、5メートルギリギリとなるということから柵はつけない、ということだったのです。
 一方、私の歩行については、「果たして私が訓練士に言われた通りに歩いていたのか」ということが問われました。「問題のない、理想的な歩行をしていれば、ホームの端にも気が付けたし、終端の点字ブロックを通り過ぎることもなかったのではないのか?」ということを言われたのです。
 このように大阪市交通局は、視覚障害者に対しては理想的で完璧な、規定通りの歩き方をするよう求めておきながら、自分のところの運転士に対しては、「オーバーランをすることもある」と、ミスを容認する態度を示しました。本来は運行面に対しても、問題のない理想的なものを求めるべきであるにもかかわらず、また視覚障害者(目の見える人でもですが)も、人によって歩き方が違うにもかかわらず、です。
 この第一審は、2001年10月15日に判決が下され、結局敗訴に終わりました。まあ交通局側の主張が正しいと認められたわけですが、実は裁判官自身が、視覚障害者の歩行というものについて、全く理解を得ようとしない人でした。理解できなかったのではなくて、しようとしなかったのですね。この裁判は、言うならば既に結論が出されてあって、その結論を導き出すための判決を書いてくる、という裁判だったのです。だからこちらの証拠と向こうの証拠も、比較するだけで最初から答えがあって、その答えに都合のいい証拠を積み上げていくという状態でした。私たちの証人尋問における、すごく有力な部分にも全く触れないという、不公平な進め方でした。このようにして、大阪地方裁判所での第一審は幕を下ろしたのでした。
 

事故当時の現場ホームの状況
点線が佐木さんがイメージしていたルートで、
その上の細い黒線が実際に佐木さんが歩いていたルート


6.控訴に至るまで

 第一審での敗訴を受けて、一部の人からは「負けると思っていた」というマイナスの声も聞かれたのですが、多くの支援者からは、「やはり最高裁までやらないといかん。一緒にやっていこう」と言われました。私としては、ギリギリまで控訴するか否か悩みました。というのも、当時まだ学生でしたので、経済面とか、今後の生活面での問題がありました。親からの援助もいつまでもしてもらうわけにはいかないし、卒業後のこともまだ十分に決め切れていませんでした。加えて、控訴して高等裁判所へ行って、そこで新しい証拠なり議論ができるのかというのも不明だったのです。勝った大阪市交通局は当然、「今更何も新たに議論することはない」という態度でしたし。それでもやはり、敗訴だけでは終われないと、控訴に踏み切ろうという気持ちに最終的にはなっていきました。ただ、支援団体である『ブルックの会』で活動していた人の中には、「将来、行政関係に就職したいので応援できない」とか、「大阪市に就職したいから応援は難しい」という声も、ほんの一部からなのですが聞かれたりしました。それとこれとは、必ずしも話が同じではないのでは?と思ったのですけどね。また、経済的な面で協力を得ようとしたところ、「支援者からお金を取るのはおかしい」と言われたこともありました。そういう、少々耳が痛くなるような言葉もありましたが、ちょうどこの時期に結婚もしまして、妻が高裁で戦うためのいろいろな資料を探しに行って見つけてくれたりしたので、俄然勢いがついてきましたね。

7.第二審(大阪高裁)その1『二つの新事実』

 第二審が始まる段階では、弁護団のほうでも、地裁の判決を受けて更にどのように情報・証拠を付け加えていったらいいのか、悩んでいだ面があったのですが、いろいろな方から情報を得られまして、その内、最も重要なものは次の2つの事実です。
 一つは、私の事故が起きる前の95年8月に2回、障害者団体から、「駅のホームの端は危険だから柵をするべき」とか、「点字ブロックを端まで引くべき」とかいうことが書かれた要望書が、大阪市交通局に出されていたということです。要望書の原文も見つかりました。この要望書に書かれているような内容は、予見可能性とも言われるのですが、今回私が経験したような事故が起こり得る可能性を、交通局側が把握する機会があったということです。一審のときの話では、「要望は口頭ではあったけど、5メートル基準のことを言ったら納得してもらえたから、それで話は終わった。それ以外に書類による要望書は一切見つからない」ということだったのですね。
 もう一つは、他の行政機関から大阪市交通局に対して、「駅のホームが危険な状態だ」と指摘された通達や指導がなされたことがあった、ということです。これも通達の原文が見つかったのですが、一審では交通局側は、「そのような通達は来たことがない」と述べていました。
 この二つの新事実について見解を求めたわけですが、一つ目については、「佐木さんが言われていたのは”視覚障害者団体”からの要望書の有無であって、我々が受け取ったのは”障害者団体”からの要望書である。もし”障害者団体”からの要望書と言われていれば、ちゃんと提出していた。”視覚障害者団体”からの要望書と言われたから何もきていないと言ったのだ。別に隠していたわけじゃない」という見解でした。そして二つ目についても、「我々は、(佐木さんが通達だと言って示された物を)通達と呼ぶほどの文書ではない、『通知』であると解釈していた。だから”通達”は何も来ていないと言った」との見解を示しまして、重箱の隅をつつくような話になったのです。しかし、この二つの事実は大きな力になったのですね。視覚障害者団体から事前に要望書が出されていたと判明したことを受けて、実際にその要望書を出した団体と関係のあった、愼英弘さんという方に、証人尋問として立っていただきました。そして、要望書を作っていた時のことを語っていただいたというのが、裁判の行方を左右する上で大きなポイントになったと思います。愼英弘さんは、四天王寺国際仏教大学の教授をしておられる全盲の方です。
  ところで二つ目の事実で出てきた『他の行政機関』というのは、近畿管区行政監察局のことで、これは行政についていろいろ観察をするところです。

8.第二審(大阪高裁)その2『ビデオ撮影』

 今回の第二審に臨むにあたって、もう一つこちら側が準備したことは、事故現場をビデオで撮影したことです。第一審で、裁判官が視覚障害者の歩行について理解を得ようとしなかったことによって、どのようにして、裁判官が『見えない人が歩く』ということを理解できるようにするかが、課題となっていました。それをクリアするために、地裁の段階でも事故現場を見てもらい、なおかつ裁判官にアイマスクをして歩行体験してもらおうという話も出たのですが、何となく流されてしまっていました。では高裁ではどうすればいいかということになり、妻が提案したのがビデオに録るということでした。撮影にあたっては、私が現場の駅(天王寺)で歩いている姿を後ろからと前からとで録って、それぞれ私が頭の中で思っていたシーンと実際に事故に遭ったときのシーンの両方を録りました。そして単に録った物を証拠として提出するだけではなく、法廷で上映して裁判官にも見てもらうようにしたのです。ちなみにカメラマンを務めたのは、私の弁護士です。ビデオを見たことによって、支援者の方でも「ああそういう状況やったんや」ということを改めて分かったくれたし、裁判官も、私がそういう歩き方をしていたということ、そして何よりも、『ホームの端と階段の裏側は非常に類似した状況にあって勘違いしやすい』という事実はつかんでもらえました。これは大きな収穫でしたね。

9.第二審(大阪高裁)その3『他の事業者の取り組み報告』

 今回の訴訟にあたり、ほかの鉄道事業者の視覚障害者のためのバリアフリー状況も、当然調べてみました。そして例えば、京都市の地下鉄では先端の柵が5メートルあり、オーバーランの限界基準も2メートルであることがわかりました。他に民間の鉄道でも、この会社は人的サポートがしっかりしているとか、マニュアルがきちんとあるとか、研修がちゃんとなされているとか、いうことがわかりまして、証拠として挙げました。
 一方、大阪市交通局のほうでも、独自にほかの事業者の実体調査をしていまして、実は地裁の段階でも陳述はしていたのです。しかしその内容というのは、「都営地下鉄や営団地下鉄には点字ブロックも柵もない。むしろ大阪市の方が進んでいる」という、自分のとこより悪い例ばかりを比較に出すものでした。さらに裁判官も、「日本の鉄道のバリアフリー水準は、佐木さんが言っているほど高くはないのだ」と言及したりしていたのですよ。これを『水準論』とおっしゃっていましたけど。私は高裁のときにも、「他が悪いから自分は現状でもいいということにはならない。大阪市は大阪市で主体的になって、どうしていくべきか考えてほしい」と訴えたのですけどね。ホームの柵だって、つけているとこもあるとは言ってきましたが、天王寺駅の場合はついていなかったわけです。声かけにしても、交通局側はきちんとしていると言っておりましたが、私はあまりかけられた覚えがなかったし、ほかの視覚障害者からも「声はかけられたことがない」という報告が多くあったのです。

10.第二審(大阪高裁)その4『交通局側の弁護士は・・・・・』

 交通局側の弁護士の態度ですが、基本的には第一審のときと変わらなかったですね。というのも地裁で勝っていますからね。この上高裁で何を話するのだ?という感じでした。私の弁護団が言っていたのですけど、地裁の時は向こう側の弁護士も、どちらに判決が下るか自信はまあまあだったと思うのですよ。証人尋問でも、こちらもいいやりとりをしていましたからね。ある意味、まさかの勝利を収めたというのが実感で、「これでいけるんだ」と、かえって自信を深めた部分もあったと思うのです。ですから高裁でも『いけいけ』でやってしまおうという気持ちがかなりあったと思うし、だから裁判が進むにつれて、向こうの姿勢は固くなる一方でしたね。いろいろこちらが証拠を出すのに対して、向こうは新たに言ってくることはないわけですから。一辺倒な回答で、とりあえず早いとこ終わらせたいという心境だったでしょうね。

11.そして和解へ

 和解については、2002年11月に愼英弘さんの証人尋問がありまして、そのときに裁判官から、当事者同士の話合いの場を持ちましょうという提案が出されました。そして03年1月20日から、計4回にわたって和解協議が行われました。その中で、地下鉄が今後、視覚障害の利用者に対してどのようにするかを述べた一般条項を出すこと、和解金を出すこと、そして駅に柵をつけることを文書で約束することが、それぞれ決定しました。和解金は300万円ですが、損害賠償が4800万円だったことを考えると、実に請求の16分の1という金額になってしまいました。柵を作ることについては、最初こちらは口頭約束にしようと提案していました。というのは、文章化するとなるとより細かい取り決めをしなくてはならず、また和解の場で口にしたことは絶対に実行しないといけないという、司法界の常識があるので、口頭でも十分効力があるからです。しかし交通局側のほうが、「きちんと文章化しましょう」と言ってきたので、「これはなかなかやる気になっているな」と思ったものですよ。ところが実際に出してきた柵の長さは、何と10センチ。「これではいくら何でも転落防止にならない」と裁判官もクレームをつけまして、次に出してきたのが20センチ。「もう少しどうにかならないのか」と要求しまして、結局75センチで落ち着きました。本当ならもう少し長さが欲しいのですが、少なくとも設置されると決まったのは一歩前進だと思うし、交通局も、今回の事故を機に視覚障害者の安全のために努力すると約束をしたので、今後は実行しているかどうかのチェックを、しっかりとやっていきたいですね。なお、最終的な和解成立日は、2003年6月30日です(和解条項は下記を参照)。

和解条項

1.被控訴人は、視覚障害者のホームからの転落事故等の発生防止を目的とし、今後とも視覚障害者にとって安全かつ利用し易い駅を実現すべく努力する。
2.被控訴人は、控訴人に対し、本件和解金として金300万円を、平成15年7月31日限り、控訴人代理人の下記口座に振り込む方法で支払う。
口座名省略
3.被控訴人は、本和解成立後に、諸般の事情を考慮し、大阪市営地下鉄御堂筋線天王寺駅1番線ホーム東端部分に限り、別紙転落防止柵設置工事概要図記載のとおりの転落防止柵を設置する。
4.被控訴人はその余の請求を放棄する。
5.控訴人と被控訴人は、本件に関し、本和解条項に定めるほか何らの債権債務のないことを相互に確認する。
6.訴訟費用は各自の負担とする。


以上


12.和解後、現在の状況 そして今後に向けて

 事故発生から実に約8年の歳月を経て、一応の決着をみましたが、これからも私は当事者として、ただ要求していくだけではなく、より具体的な改善案を鉄道事業者側に出していこうと思います。現在の状況ですが、やはり駅員の対応などはだいぶ変わってきたという印象を受けています。声をかけてくれたり、いやそうにせずに案内してくれたという声を、ほかの視覚障害者からも聞くようになりました。そしてそもそも大阪市が、「国よりも一歩進めた交通バリアフリーを実現させる」と言っているのですね。地下鉄についても、例えば自分が何両目のどの扉に乗ったか分かるように、扉の合わせ目の右側に点字表示を設置されることになりました。これは東京や名古屋では既に行われています。また駅ホームの点字ブロックについても、今までの物では上を歩くとき、どちらが外(端)側でどちらが内側か分かりづらいというのがあります。そこで、内側の方に誘導ブロックを作ることになり、現在森之宮駅で試験的に実施されて、一般意見を募っているところです。さらに駅の両端を示す部分の点字ブロックも、現在は一重線でのみ表示されているのですが、国は二重線の方がいいと言っていまして、既に京都では二重になっています。
 ところで今回の訴訟については、マスコミもどんどん取り上げてくれました。もちろんそれは関西が中心で、決して全国的に知られるようになったのではありません。そういう意味では、もっと全国を行脚していれば、より力になったかも知れないと思うこともありますね。しかしメディアの意識も確実に変わってきているのは事実です。「今回の訴訟は、大阪市だけの問題ではない。全国の交通事業者共通の問題でもある」と、論評で書いてくれた新聞もありまして、大変良い捉え方をしてくれたと喜んでおります。「実質逆転勝訴」と報じてくれた新聞もあるし、特に視覚障害者の転落事故に対しては、すごく敏感に取り上げてくれるようになりました。
 最後にこれからのことですけど、先ほど言いましたように、交通バリアフリーに関して、大阪市がきちんと実行しているかどうか監視を続けていくことと、大阪市交通局とも、これからは共にバリアフリーを考えていくチームとしての関係を持てればいいなと思っています。そして私はピア・カウンセラーをやっておりますが、外出をする中でのいろいろな悩みの相談がある一方、根本的に家から外に出かけられないという人も、まだまだ多くいるのですね。これまではどちらかというと、『実際に出かけてくる人』を対象としたカウンセリング活動に集中していたのを、これからは『これから出かけようとしていっている人』を対象としたカウンセリングも行うというように、より活動範囲を広めていきたいと思います。それでは、佐木訴訟について詳しく書かれているホームページを紹介させてもらって、終わりにしたいと思います。
 本日はありがとうございました。

事故当時の天王寺駅 
白色の矢印線が、佐木さんが実際に歩いたルート
事故後、柵が取り付けられた転落現場


おわりに

 以上、特集をお読みいただきました。
 生まれたときから目の見える生活しか知らない人にとっては、『見えない怖さ』を理解するのは、正直むずかしいと思います。だけど社会全体が、視覚障害者に与えられている環境・バリアというものを、自分のことに置き換えて見つめ直してみることで、見えない人との気持ちの”距離”は縮まっていくのではないでしょうか。今後の交通バリアフリーを考えていく上で、この訴訟の果たした役割は計り知れないほど大きいと感じております。少しでも安全な交通環境(特に鉄道)が実現するよう、小さなことでも力になりたいです。
 最後に、当日はご多忙な中、佐木理人さんに長時間取材にご協力いただきました。深くお礼申し上げます。

(文責:根箭)

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3. 緊急投稿第二弾:支援費の課税問題について

公認会計士・税理士 岩永清滋

 以前、この機関誌の上で支援費の課税問題について意見を言わせてもらったものです。その時は、私は支援費は非課税ではないかとの意見を表明しました。
 実は、9月17日付けで国税庁の正式見解が出ました。それは「医療保健業」として課税されるというものでした。私の意見と正反対の結果になり、非常に残念に思っています。
 この結論は、以前の私の意見の中でも述べましたが、意図的に社会福祉法人を助けよう(非課税としよう)との考えのもとに行われた無理な解釈と言わざるを得ません。繰り返しになりますが、支援費事業を行う代表的な法人形態の内、株式会社は元々課税であり、社会福祉法人はこの取扱によって非課税となります。つまり今回の取扱が発表されたことにより課税扱いとなるのは、NPO法人だけなのです。
 ここで医療保健業と判断された根拠は、「こうした障害者は、医療保健面でのケアを必要とするのが通例であることから、医療と密接な連携がなされており、実際面において、これらは、居宅介護計画の策定過程等を通じて確保される。」との文章に表われています。しかしこの表現がおかしいことはみなさん気づかれるはずです。確かに施設サ−ビスなどにおいては少し医療面のことが決められていますが、居宅サ−ビスのうち介護者派遣事業(これがNPOが行う大半の仕事です)において、一体どれだけ医療との関連があるというのでしょうか。障害者は何も「医療保健面でのケアを必要とする」ばかりではありません。日常生活や外出などの場面で支援がほしい、それがホ−ムヘルパ−であり移動介護であるはずです。生活のあらゆる場面での自立生活のための方策こそ、支援費であったはずです。障害者の中でもっとも医療保健面での配慮が必要な人は精神障害者ですが、その部分は支援費の対象からはずれています。また補装具の交付などの場面で今も医師の判定が必要ですが、それも支援費から除外されています。何度も言いますが、支援費は極力医療とのかかわりをうすくした制度なのです。
 今回の見解は、国税庁が一方的に出したものではなく、厚生労働省がお伺いして国税庁がそれに答える形になっています。障害者団体と何度も交渉して支援費の中身を熟知しているはずの厚生労働省が、支援費を医療保健業というのだから、全く話にならないと断言せざるを得ません。
 しかし、この見解(文書回答事例という形になっている)は、今後、税の執行の場面では公式に採用されることになります。これに対抗する手段は、実は裁判しかありません。この裁判というのは、今訴えるわけにはいきません。つまり、支援費は非課税として申告しない場合、税務署がやってきて課税ですよといって更正という方法をとります。彼らは権限を持っているので、更正されたら一旦は税金を納付しなければなりません。その後やっと訴える(つまり税金を返せということ)ことができます。そして負けた場合、無申告加算税とか延滞税とか余分の税金も支払わなければなりません。
 残念ですが、現実的な対応としては、この取扱にしたがって申告する方が無難であるといわざるを得ません。
 申告する以上は、極力所得を少なくすることが得策です。税金は大体において所得の30〜40%になります。きわめて大きい数字になります。所得を少なくするといっても、単に帳簿をごまかすとかの安易な方法はとれません。税務署というところは、毎日帳簿をみることを仕事としているわけで、みなさんが思うほどやさしいところではありません。
 実際にNPOの外部に支出しなければ経費として認められないと思って下さい。以下のようなことを今一度点検して下さい。
@もし人件費の水準が低いものならば、妥当な水準まで引き上げる。
A人手が足りないのであれば有給の職員を採用する。
B福利厚生制度を見直し、合理的な制度に加入する。
C必要な物品であれば前倒しで購入する。
Dいずれ行う予定であった修繕や改修なども真剣に検討する。
E何でも手弁当でという発想を見直し、払うべきものは支払う。
F職員の所属を見直し、支援費事業に携わっている人は極力支援費事業から支払う。
 そして以上のようなことを行い、きっちりと予算を組み直し、税金がいくらぐらいになるかを想定し、その資金を確保しなくてはいけません。3月決算の場合、来年の5月末には納税が必要になります。
 なお「収益事業開始届」という書類と「青色申告承+認申請書」という書類も提出する必要があります。ここらあたりわからなかったら、中間支援センタ−とか専門家にアドバイスを受けて下さい。
 実はこの見解が発表されてから北海道のNPOのメ−リングリストで多くのNPOから抗議のメ−ルがあがっています。関西でも体力の弱いNPOが課税で、なぜ規模の大きい社会福祉法人が非課税なのか、各地で声をあげてほしいと思います。東京なども含め、そのような意見が全国に広まったら、ひょっとして違う展開が生ずるかも知れません。私は裁判までなったら勝つと今でも思っていますが、そこまでいかなくても意見をいうことは自由であるはずです。
私も今後ともがんばる所存です。

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4. 地域の作業所の活動を紹介します −第1回−

広報誌編集部

 豊中市内にはたくさんの作業所や通所授産所があります。それぞれがいろいろな活動をしており、地域に向けて物を販売しているところも多く存在しています。CIL豊中通信では、これから毎号、これら地域でいろいろな販売活動をしている作業所を訪ね、そのリポートをお届けしたいと思います。
 みんな知っているようで意外と知らない人も多い、地域作業所の販売活動のようすを一人でも多くの市民に知っていただき、利用していただければ、と思っています。
 それでは第一回目は、えーぜっと作業所のパン販売と、であいの郷のお弁当販売についてお伝えします。



1.毎日ほんとうに商売熱心!!!えーぜっと作業所のパン製造を見学しました

 大黒町3丁目にあるえーぜっと作業所、ここでは15年以上前から、無添加パンの製造・販売を行っています。製造はえーぜっと作業所に隣接するベーカリーえーぜっとで行われ、障害者スタッフが中心となって働いています。作っているパンは約15種類もあり、そのほかにクッキーを4〜7種類、パウンドケーキを2〜4種類、そしてマドレーヌも2〜3種類作っています。
 小麦粉をちぎり、練って形を整えてトッピングを乗せ、焼き上げる。職人芸が求められる行程を、スタッフは実に手際よくおこなっていきます。知的障害を持つ人が中心スタッフになっていますが、皆さんとても生き生きした表情をしていて、見ているこちらにまでその気持ちが伝わってきました。そのようすは、次のページに写真をたっぷり載せていますので、そちらでごらんいただくことにしましょう。
 さて、最も肝心なこと、「パンはどこへ行けば買えるの?」ということなのですが、現在常時販売している店はありません。主に配達による各お得意先への販売がなされており、豊中駅ビル内の『なかまの店』での販売(当番日のみですが)もあります。個人が購入したい場合は、事前に注文していただければ、各家庭にまで配達することもできます。食べて安心、味もうまい!みなさんぜひご注文下さい!!豊中市内ならどこへでも飛んで行きまっせ〜。
現在のおすすめ商品は、秋・冬限定のクリームパン、新作でやわらかいハイジの白パンです。そのほか、カレーパン、メロンパン、あんぱんなどの定番商品も、いつでもおすすめです!!

(文責:根箭)

ベーカリーえーぜっとのようす   一番右下は運搬の作業
小麦粉を練る 型を作る トッピングを付ける
楽しそうな表情のスタッフ 焼きあがったパンを並べる 車に積む




2.人に出会い、集いの場にしていきたい!!であいの郷に行ってきました。

 そこは、豊中の北の住宅街、春日町。緑に包まれた閑静な住宅街の中、うわさに聞いていた入り口の急な坂は、ほんとうに見事でした。まず、迎えてくれたのは、小さな植木鉢に植えられた小さな花々でした。
 お話は、主に代表の石原朋和さんに伺いました。ここの一番の売り物は、毎日の手作り弁当。弁当作りは、cook de 愛という別事業で、一般の主婦たちがパートで関わり、その出来上がった弁当を配達に行きます。そして空になった弁当箱を回収して洗うのが、作業所の仕事です。配達は広範囲で、「注文があれば、どこにでもいくよ」と、石原さん。さっそく、CILにも来てくださいと頼みました。今は一般家庭や、中学校の先生などの人たちが、お得意先だそうです。無添加で有機栽培、体に優しい食材を出来るだけ選び、しかも薄味でとくれば、とっても健康的なこと間違いなし。おかずは野菜中心で4種類、いいですね。一食は700円。お昼は麺類をすすっておしまい、という中年層のお父さんたちには、最高ですよね。
 「ほかにも、いろいろ売っていますよ。ぜひ、買いに来てください」
と石原さん。
 まずは、お米。島根県産のコシヒカリ100%、やさしい環境で育ったおいしいお米です。それに平飼いの卵と、味噌、鰹節などです。どれも安全で安心なこだわりの食品です。
 あ、そうそう、玄関で私たちを出迎えてくれた小さな花々も、実は売り物だったのです。そのほか、バザー品を募集したり、いろいろやっております
 最後にここの作業所のキャッチフレーズを聞いてみると,「とにかく主体は障害者で、子どもから高齢者まで、いろいろな人が集える場でありたい」とのことでした。
 あとでもらったチラシを見てみたら、ほんとにいろいろな事業をされているんですよね。(チラシ参照) いろいろとやって、いろいろな人たちに出会って、集っていこうという意気込みを感じました。

追伸
CIL豊中の広報誌担当の人たちに、お弁当を食べてもらいました。(食いしん坊の私が提案したんですが、当日休まなければならない事態になり、残念)みんな口々に「おいしかったよ。でも、すこし量が多かったな。うーん、私たちには、薄味すぎたわ。」とか、言っておりました。でも、薄味だと、あとから味が足せますよね。

(文責:塚原)

であいの郷のお弁当と、PRのチラシ
弁当の中身 サラダ、玉子入りハンバーグ、ごはん、たくあん、しゃけ、菜っ葉の煮物 であいの郷取り扱い商品 手作り田舎みそ、米、平飼卵、かつおぶしけずり

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5. 2003年度第一回自立生活プログラム講座最終報告

全 京子

 前号に引き続き自立生活プログラムの報告をします。
今回は「まず自分から〜自分にとっての介助について考えよう」ということで、枚方のわらしべ園という施設からイッシーこと石原君、はなちゃんこと山口さん、おっさんこと増田君、豊中在住のけいこちゃんこと宮地さんの若い4名が参加しました。そしてまず介助者と1対1で1日過ごし、その後アミティ舞州に行って1泊するお泊り企画でした。
日程は7月6日〜8月24日の日曜、月曜の計5回で行いました。
今回のプログラムは次のとおりです。
● 1回目7月6日(日)/自己紹介、茨木市で自立生活をしている山田千恵子さんの講演。
● 2回目7月13日(日)/日ごろ受けている介助についての話し合い。
● 3回目8月3日(日)/10・11日の下準備で自分がしたいこと行きたいところを決めていきます。
● 4回目8月10日(日)・11日(月)/この企画のメイン、アミティ舞州でお泊り。
● 5回目8月24日(日)/反省、パーティ。
前号で1回目の報告をしましたのでここでは2回目からの報告をしたいと思います。
 2回目は受講者の4人が日ごろどんな風に生活しているかを発表した後、大友さん、全の生活状況を発表しました。
この時、介助者に自分のやって欲しいことをどんな風に伝えればいいかについてを話していた大友さん、「話していてもわかりにくいから」といって介助者として参加してくれたタマチャンとタッチャンを呼び、電動車いすから床へ降りるやり方の実践を始めました。それをそばで見ていた私たちはびっくり仰天!大友さん本人も「ヘルパー講座でもここまでやってない」と自分の行動に驚いていました。
 3回目、この講座の第2のメインイベント、「スケジュールを考える」。
イッシーは京都出身で「本場大阪のおいしいたこ焼きが食べたい」ということで、一日目は大阪の象徴である通天閣の商店街でたこ焼きを食べ、通天閣にのぼりピリケンさんに挨拶し、「フェスティバルゲート」でジェットコースターに乗り、「でんでんタウン」、「道具屋筋」を回りアミティへ。二日目は「ミズノスポーツミュージアム」、「WTC(ワールドトレードセンター)」に行きわらしべ園でフィニッシュ。
 はなちゃんは「ショッピングがしたい」ということでWTCで買い物を楽しみアミティへ。二日目は天保山の観覧車にのりわらしべ園でフィニッシュ。
おっさんは「環状線でぐるぐる回りたい」ということで環状線を1週半し、ユニバーサルシティ駅付近で昼食をとり、みんなより早くアミティへIN。到着後すぐスポーツセンターで水泳を楽しみ、次の日は朝早くから南港で釣りをし、豊中の実家へ帰りフィニッシュ。
 けいこちゃんは10・11日が都合が悪く別の日程でスケジュールを立てました。目的は「ショッピングがしたい」。一日目は梅田に行き、CIL豊中の自立体験室で泊まって晩ご飯を自炊。二日目は心斎橋うろうろした後自宅でフィニッシュの予定でしたが、残念ながら予定していた当日も急な用が入りお流れに。
 さて、メインイベント当日、スタッフは「どうか二日間何事もなく無事に終わりますように」とドキドキです。
この講座の目的が「自分にとっての介助を考えよう」なので、私たちリーダーは着かず離れずである一定の場所に待機し、イッシー、はなちゃん、おっさんが呼ぶまでそばには行きません。参加者は介助者と共に、二日間過ごすわけです。
 「たこ焼きが食べたい」とイッシーチーム。フェスティバルゲートで初めて乗ったジェットコースター。イッシー本人より介助に着いたたっちゃんが目を回すというハプニングが!
 「ショッピングがしたい」とはなちゃんチームは、WTCでかわいいパンツがあり、そのパンツの試着をしたんですが、これが初めての体験。
 「環状線をぐるぐる回りたい」とおっさんチーム、昼食で入った回転寿司でビールをグビッ!夕食後にビールをグビッ!二日目釣り終了後たこ焼き屋でビールをグビグビッ!
 それそれ個性が光った体験ができたと思います。
いよいよ最終日の24日。残念ながらはなちゃんは当日体調が悪くなり、参加することはできませんでしたが、写真を見ながらわいわいと過ごしました。
 今回が初めての「お泊り企画」。準備をすすめるうちに「大丈夫かなぁ?」と心配していたのですが、何事もなく終わることができました。
 最後になりましたが、介助者でご参加くださいました方々に感謝感謝です。
 今後ともお願いすることと思いますが、よろしくお願いいたします。

介助についての、事前話し合いの様子 WTC(ワールドトレードセンター)前での一コマ 宿泊体験で電動式リフトを初体験

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6. 学生無年金障害者の活動から Part 5

大友章三

 この取材も一年が過ぎ、連載も5回目となりました。
裁判所に出向いて傍聴し、その後には原告の人たちとそれを支援する弁護士の方々、そして各地から集まって来て、裁判の状況を見守っている人たちとで報告集会が行われ、法律用語を使わないわかりやすい説明を聞くことができています。
 裁判自体は30分ほどで、難しい言葉が飛び交って私たちにはほとんど理解されない状態で進められています。同時に配られる準備書面(資料)も裁判用語と難しい漢字が並べ立てられ、六法全書と国語辞典を傍らに置きながら資料を見ている状況があります。
 今回は10月10日に大阪地方裁判所大法廷で裁判が行われ、被告(社会保険庁)から資料が出されました。
 私は、5回ほど傍聴に来ていますが、被告側から、資料が出されたのは初めて見たので、どんなことが書かれてあるのかが、凄く興味がありました。そこで書かれてあったことは、「国民年金というのは会社で掛けている厚生年金で貯蓄しているから貰える制度だ!」また「主婦と学生を除外したのは、学生は卒業したら厚生年金や共済年金に加入するし、主婦は夫の厚生年金の扶養家族となり、その範囲となる。国民年金は、厚生年金とは関係ない人たちの加入を認めており、主婦や学生は、厚生年金制度で間接的にカバーされているから、国民年金から外してもかまわない」と言っている。また以前出された資料では、国民年金制度では老齢・障害といったような仕事による収入が得られない人に対しては、そうなる前に予め貯蓄をする制度であると言い続けている。
 それに対して、原告は被告に対して、「それを主張するなら郵便貯金や銀行預金をしたり、自分で生命保険とか傷害保険などを掛ければいいじゃないか」というような意見に対して、被告は「それは極論であり、社会保険は民間の保険とは違う」と言い、国民年金は保険とはかけ離れていると言いたいと考えているのでしょう。
 国が言いたいことは、「保険料を払っていない者になぜ年金を与えないといけないのか」です。しかし、国民年金とは、保険料を払っていたら万が一事故がおこり、障害をもった国民に対して公平に年金を与える。それが国民皆年金の考え方です。
 国は、保険制度と貯蓄を同じものかのように見てしまい、国民年金に加入することは、義務であり、権利であることを忘れてしまっているようなことが感じられました。
 全国各地でこの問題に対して、提訴をしている障害者の人達が国民年金に加入する手続きの時に窓口にいた人達の対応によって、加入することができずその後にはどんなことになったのかということが未だに理解出来ていないようなことが感じられました。
 障害者福祉の基本になる「障害者基本法」には、どこの条項を見ても「障害者に障害年金を制度として支給しなければならない」とは書かれていないそうです。
 障害者の人権の保障は、年金だけじゃなくて、手当て、制度の拡充また、雇用の拡大、健康の増進とか書かれていますが「障害者基本法」自体では年金支給の事柄を入れることは無理だそうです。
 ここで国が考えている国民皆年金の定義を示してみたいと思います。
 国の主張は「すべての国民が加入できる年金保険制度を準備することを意味するものであって、即ち全国民が制度に入り保険料を納める義務を果たせば効力を発生させる。」これは入りさえすればいい、学生も任意加入でさえあればそれでいいんだ、だから国民皆年金の主旨にあっていると言っているのです。
 こちらの考えている国民皆年金の主旨が「国民皆年金とは全国民を対象として、老齢、障害、死亡等によって所得をなくした場合、全ての国民に対して年金給付による所得保障をおこない、それによって生活を保障する。よって、悪質な保険料長期滞納者を除いて無年金者の発生を予防する」というような主張をもっている。これでわかるように国の考え方は保険料の納入が円滑にあれば国民皆年金は効力があるとはあるが、そうはいかない。現在国民年金の納入率は何%だろうか?円滑な納入を考えるのは非常に甘い考えだと思います。
 年金制度は、国民の生活により近づき、所得を得られなくなった人に対して生活を保障するためのものがよりいっそう強くなるなら、納入率も上がるだろうし、より近い制度になっていくと思います。
 今回、国政選挙が行われ政党の政策の中に、年金制度を考えると示していましたが、今の状況でどこまで考えられるかが、興味があるし心配でもあります。
 平等権を唱っている憲法14条、基本的人権の尊重を唱っている憲法25条がありますが、年金問題に関しては両方ともが重要になってくるのです。
 国民には誰でもが国民年金に加入する権利があり、それを使って、生活を営む権利があるのです。この裁判はその権利を当たり前に主張する障害者とその権利を阻もうとする国との戦いです。
 誰が見ても国が考えていることがヘンだし、現代の考え方に合っていないのは事実であると思います。
 この裁判はこれからだんだん戦いが熱をおびていくと思います。
 東京では、身体障害者の原告達が証人を招聘して裁判を繰り広げようとしています。
 それに対して、国側は自分たちがやってきたことを振り返らずにまた反省もしないで裁判を続けようとしています。噂では東京の裁判で裁判長をしている人は市民側にたっている方だそうです。来年4月になれば、移動し裁判長が代わってしまうとも言われています。国はそれを見越して裁判を長期化させようとしています。
 これは、国の作戦であり、今の裁判長の時に判決を持ってこないと国の言いなりになってしまうこともあるのです。
 全国各地でこの裁判に関わっている人達が東京の裁判を推移し、協力体制を組み、戦っているのです。大阪では、動きは少し遅いように思うのですが、着実に進めていくため、各地の法廷で証人として出ている人達の意見を把握し、来年後半には、大阪でも結審ができるように進めていくことが大切だと思われます。
 国は、準備書面(資料)も私たちが関心する物も出さずに過去に提出したものをコピーしたかのようなものが多かったりしているようです。法廷内でもたくさんの関係者が並んでいるのですが、原告団の意見に対して、反論もせずに聞いてるのか聞いていないのかよくわからないのです。裁判長が次の日程を調整したり、次に出す準備書面の確認をするときには、「予定が合わない」とか、「資料が出せない」とか言ったりするのです。
 原告の弁護士さんから聞いたのですが、証人尋問の時に当事者(障害者)を出したいと言ったとき、被告弁護士からは「この裁判には障害者の生活は関係ない」と言って難色を示したそうです。
 当事者の意見こそこの裁判の論点であり、最も必要な証人だと思うのです。被告側は、それが出ると裁判長の判断が原告側に行ってしまうことを恐れて難色を示したのかなと思うのです。
 でも、当事者の意見や行動によって、この裁判の勝利は、手中の物になっていくのです。
 私たちは、この裁判の推移を見つめるために傍聴し、報告集会に出向き、皆さんに報告することが必要であると思うのです。
 読者の皆さんも時間があるならば、傍聴に行き、私たちと一緒にこの裁判を見つめていきたいと思っています。

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7. メイちゃんのつぶやき

メイちゃん

 11月になったというのに今年は、暑かったり、寒かったりすることが激しくて、風邪をひいてる友達がたくさんいます。
 私と同居している、「トドロ」もお風呂上がりなどは裸でいるのに、顔を見ると鼻水を垂らしているのです。情けないことです。

◎やったぜ!!阪神優勝
 9月15日に阪神タイガースが18年ぶりにセリーグで優勝し、その決定の瞬間は「トドロ」だけベッドの部屋にたてこもり、カーテンも窓も閉め切って真っ暗にし、テレビでその試合を見ていたようです。
 その場面には、私と新しく仲間入りをした「フーさん」だけでした。「ピドレット」やその時に来ていた「たまちゃん」が部屋に入ってくると、「一人にさせて」と言って、顔はくしゃくしゃになっていました。風邪をひいた鼻水なのか、うれし泣きの鼻水なのか全部が入り交じってすごい光景でした。
 さて、この秋はいろんなことが起こっています。

◎仕事場がお引っ越し・・・でも
 まず、一番大きいことは「トドロ」が仕事をしているSIL多中が麦津から天道虫池に引っ越したことです。新しい事務所は明るくて相談室も広く、仕事がしやすいかなと思います。また神急天道虫池駅からは屋根が付いていて、雨が降った時などは濡れずに天道虫池駅から行くことができます。それに同じ階にはカレー屋、焼き鳥屋、どんぶり屋、それにスターバックスがあり、食べることには困らないということです。スーパーマーケットや本屋、CDショップなどのショッピングセンターもあり、買い物にも困らないそうです。
 食欲の秋です。職場の近くに、美味しい食べ物をたくさん売ってたり、レストランなどがたくさんあれば、恐ろしいことにまた、体重が増えてきそうな気がします。ダイエットなんてあったもんではないですね。
 ある日、仕事が終わり事務所の外を出るとなにか焼いてる臭いがしてました。思わずどこからするのか探してみると、隣が「焼き鳥」屋なのです。思わず「これはいけない」と思い、気持ち的には、そっちの方に気を取られながら帰っていきました。
 「ダイエット」という言葉は、かけ声だけになりつつあります。仕事場の周囲の環境がこれだと、かけ声にもならなくなります。「トドロ」の家族や友達たちは、それが心配になって、「トドロ」に意見を言うのですが、さァーどうだか・・・。
 仕事中には、一時間のお昼休みがあるのですが、本屋とか洋服屋、百円ショップなどを見ているとアッという間に時間がなくなり、お昼ご飯より、外を散歩してるほうが長い、今日この頃です。

◎15年ぶりの定期を持って通勤・・・うれしい
 「トドロ」は久しぶりの電車通勤で嬉しそうに定期券を買い、みんなに見せていました。ただその定期は一般用のもので介護者が付くと使えないことに気づき、慌てて神急電車に問い合わせをしたところ、障害者割引と介護者割引が両方買えて二人で使える2枚の定期券が、一般の一人分の金額で買えることが判明し、慌てて買い直しに行くことになったそうです。
 その時に応対してくれた駅員さんが優しい人だったので全部教えてくれて、なおかつ手数料もいらないと言ってくれたそうです。
 なんでもそうですが、よく調べて物事を決めたり、買ったりすることが絶対必要だと再度思いました。
 これから通勤などが大変かもわからないし、新しい事務所になれるのも少し時間がかかるかもわからないですが、新しい気持ちでやっていく楽しさをみんなに伝えて行きたいと「トドロ」は密かに思っているようです。

◎はじめてのUSJ・・・疲れた
 先日、「トドロ」と「ピドレット」は友達4人を含めて、初めて「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」(USJ)に行ってきました。「トドロ」は自慢気に話をしていたのですが、アトラクションやショーは4つほど体験したそうです。最初は時間配分などで困ったと言っていました。それはアトラクションに行く時は並ばなくてもよくて、「このアトラクションに来る時は2時間後に来て下さい」とお姉さんから言われたのです。2時間空いてるんだったら次のすいているショーを見ようと思って行ったら、そこのお兄さんからは「2時間後のアトラクションを予約しているから、このショーを見る時はアトラクションを終わってから、もう一回来て何分か後のショーを予約して下さい」と言われてしまいました。「トドロ」は納得できずに「すいてるからええやんか」と言ったのですが、「ルールですからダメです」と言われて少しふてくされながらUSJの中を回っていました。そこで思わず叫んだことは「東京ディズニーランドだったら横から入れてくれるわい!!」と言っていたのですが、今はどうかわかりません。でも「横入り」するのは障害者と健常者を特別なものとしてしまうことになるかもしれません。「横入り」はあまり賛成できないかな〜と思うようになりました。
 USJは映画が好きな人だったら凄く楽しいと思います。映画があまり好きではない人もそれなりに楽しいと思います。「トドロ」は映画が好きみたいで、USJに入るなり、マリリンモンローのそっくりさんを見つけて、写真を撮ってました。もちろんツーショットを狙っていたのですが、いつのまにか後ろに人が並んで集合写真になっていました。(残念でした)
 USJに行く時は、事前にガイドブックやパンフレットを見て、すいてるアトラクションと混んでるアトラクションを見つけ出し時間を決めて、疲れないプログラムを立てて行くことをお薦めします。ショーは割とすいています。そして車いすの人は乗れるものと乗れないものがありますし、介護者が一緒に乗ってくれれば乗れるものもあります。そのへんのところをよく調べて行ったほうがいいですよ。
 「トドロ」は計画性がなかったので大変疲れて帰って来たようです。

◎新しい仲間です・・・「フーさん」
 最後に今回から出てきた新しい仲間を紹介します。
 名前は「フーさん」といいアメリカのロサンゼルスで生まれたそうです。身長は約1メートル、体重は約1キログラム、黄色い顔をしていて、赤いベストだけを着ています。いつも眠っている感じですが夜になると動いているかもしれません。そして鼻の頭にはなぜかミツバチが止まっています。「トドロ」の縮小タイプかな・・・。
 今後ともよろしくお願いします。
 私はそろそろ体が汚れてきたので寒くなる前にドラム式の洗濯機にネットに放り込まれて入れてもらい、またキウイの木に干してほしいなと思っています。
 これからクリスマスやお正月と一年の中で一番忙しい時期を迎えます。「トドロ」家も外の寒さに負けないで家の中は、熱気で包まれるようです。怖いことです。

フーさん 誰かに似てる・・・・・?

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8. ふー、助かったよ〜!


 今年は季節代わりが急で、暑くなったかと思えばめちゃくちゃ暑く、涼しくなったかと思えば寒く感じるほど。体がこの変化についていけず(これは年のせいか?)体調を崩されていませんか?
 車いすの私は、『今日は溶けそうや〜』と空を見て思うある日、スケジュールが目白押しで、途中で自宅に帰らないといけないのに、時間・間に合わんし・・・と頭を抱えてしまった。
 その時、最近出来た車いすのまま乗れる『福祉タクシー』のことを思い出し、早速利用してみた。今まで“タクシー”は論外だった私には朗報だった。普通のタクシーは乗れないことはなかったが、どうしても乗り移りが大変で。。。車いすのまま乗れても、介護料という別料金がかかり、とても再三使うことは出来なかった。
 この『福祉タクシー』は、通常のタクシー料金でよくて、『タクシーチケット』をお持ちの方は利用できるとのこと。実際、今までより安くてすみました。
 それからというもの、それらしき車を見たら、ナンバーを控える私。(かなり怪しいかも?)
 先日、通院で西宮に行ってたら、豪雨。自走で帰る予定だったが、あまりにも激しい雨でどうしようかと。この時、控えたナンバーが役に立った。
 それから後、私用のため飛行機で東京に行くことになり、自分だけが『リムジン』に乗れないことに気付いた。“もしかしたら、東京の方でもこんなタクシーないのかな?”と思い、いつも利用している方に聞いてみた。そしたら親切にも、『協会』の電話番号を教えてくださり、早速・問い合わせてみた。関東は関西よりまだまだ数が少ないらしいが、近くの営業所を案内してくれた。その営業所の方が迅速に、応対していただけるドライバーの方を紹介していただき、みんなで移動することが可能に、ふー。
 ついでに近畿圏の一覧をも今後の為と、教えてもらっちゃいました。
 基本的に予約制であったり、車種によっては利用できない方もあったりと(介護保険も利用外の場合も)と、まだまだ利用しにくいことも多いですけどね。当事務所に、何ヶ所かチラシがありまーす。
 これから寒くなり、外出するのも根性が要りますよね。そんな中、少しでも“外出したい”との気持ちが断たれることなく、外で一人でも多くの方とお会いできればと。。。   

by ま〜たれ

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9. 「おおいに語ろう!」ピア対談 −第1回−

和田伸也・全京子

 CIL豊中には、日頃からたくさんの障害者の方が出入りしています。また、事務所内には常にピア・カウンセラーがおり、障害を持つ人同士でのカウンセリング活動をおこなっています。
 今号より本誌にて、それら障害を持つ人同士が自分の障害や社会環境、それにお互いの持つ共通のテーマなどについて語り合う、対談コーナーを設けることにしました。第一回目は、当センター身体障害者ピア・カウンセラーの全京子さんと、視覚障害者ピア・カウンセラーの和田伸也さんのお二人による対談です。なお、本誌編集員の根箭が、進行役を勤めさせていただきました。

根箭 「全さん、和田さん。本日は広報誌にご協力いただきまして、ありがとうございます。では早速ですが、まずお互いの自己紹介からお願いします。」

 「こんにちは。CIL豊中で、ピアカウンセラーと行事担当をやっております、全京子と申します。障害は四肢機能障害です。よろしくお願いします。」

和田 「こんにちは。和田伸也といいます。僕も全さんと同じで、CIL豊中でピアカウンセラーをやっています。障害は視覚障害です。まっくらではなくて、光は感じている状態です。僕は東大阪に住んでいるのですが、そこから白杖を使って一人でここまで来ています。」

根箭 「お二人にご自分の障害について、いろいろお話していただきたいのですが、まず全さんは、子どものときから電動車いすでの生活だったのですか?」

全京子さん 和田伸也さん


 「生まれたときは正常だったらしいのですけど、なかなか首がすわらなかったらしいです。生後6ヶ月以上経っても首がしゃんとしないというか。両親がいろいろな病院に行ったのですけど、原因は全然分からなかったそうです。普通に歩くこともなかなかできなくて、小学校に入るとき、地域の学校に行こうと思ったのですけど、養護学校に行くように言われました。結局養護学校に通ったのですが、1〜2年生のころに歩けるようになって、車いすなしの生活になったのです。35歳ぐらいまで、普通に歩く生活をしていました。走ることもできたし、階段は手すりにつかまって上り下りできました。それが35歳ぐらいに二次障害がおこり、電動車いすを利用するようになったのです。」

和田 「二次障害のときに、何がおこったのですか?」

 「歩こうとしたら緊張がはしるようになって、それがひどくなったのです。」

和田 「障害者手帳は昔から持っておられるのですか?」

 「はい、持っています。」

根箭 「和田さんの場合は中途視覚障害だと聞いておりますが。」

和田 「僕は高校2年、17歳のときに網膜色素変性症という病気にかかりました。これは色の識別や光の認識ができなくなり、視界も狭くなって視力もどんどん悪くなるという原因不明の病気なのですが、治療法もなく、今の段階では単に病名だけがわかっている状態です。小学生や中学生のころとかは普通に見えていました。だからごく普通の健常者だったわけで、盲学校に行っている人も全然知らなかったですよね。それが高校2年で発病して、その時点で視力は0.1ぐらいにまで低下しました。それだけならまだ何とか生活できるのですけど、一番困ったのは視野狭窄、つまり見える範囲がどんどん狭くなってきたことですね。具体的には真ん中だけしか見えない。だから前を向いていても、ちょっと横にあるものやいる人が見えなかったし、自分は何もないと思っているから、いきなりぶつかったりつまずいたり、何もないところへ急に人が現れたりしてビックリしたことがありました。また一番困ったこととして、自分は中学〜高校とラグビーをやっていたのですが、プレーをしていてすごく危なくなってきたのですね。ボールが消えるし人も消えていくし、『あれ?どこに行ったんだろう』という感じで。もうスポーツにならなくなって、医者からも危険だから止めとけと言われ、結局断念したのです。学校は何とか今の高校を卒業しなくてはいけないという気持ちでいました。僕の行っていた高校はほぼ100%、卒業後は大学へ進学する学校で、僕も周りと同じように、卒業して大学にも入ったのですけど。それからですね。さらに症状が進行していったのは。大学2年のころに文字が見えなくなって、視力も視野もなくなってしまったのですよ。それで点字を習い始めたのが20歳のときですね。ところでこの網膜色素変性症という病気の人は、数自体は結構多いのですけど、普通は高齢でかかるのですね。それで進行も遅いのですけど、僕は若くしてかかり、また若いから進行もすごく速く、こういう例は非常に珍しいということです。今では電気が点いているかどうかはわかるのと、晴れた日には屋外にいると物陰や人影がわかる、という状態ですね。光の方向や、急に電気が消えた、といった変化はわかります。」

根箭 「色が分からなくなるという現象をもう少し具体的にいうと、色の区別がつかなくなったり、カラーが白黒に見えるというイメージでしょうか?」

和田 「そうではないですね。例えていうなら、カメラのフィルムがボロボロに壊れてしまって、映像が映像として写らなくなる、というイメージです。たとえカメラのレンズそのものが正常でもフィルムが壊れていたら、現像したとき何が写っているか分からない写真になりますよね。そういう状態です。」

根箭 「最初に17歳で、『何かおかしい。パッと目を開けた感じが違う』と自覚したきっかけは、視野狭窄ということになるのでしょうか?」

和田 「そうですね。ただ視力の低下は中学2年のころからあったのですよ。そのときは近視になったと思っていたのですが、一つおかしかったのは、矯正視力(眼鏡をかけるなどして視力を補うこと)がまったく効かなかったのですね。だから『おかしいな?』とは思っていたのですけどね。それでハッキリおかしいと感じたきっかけは、やっぱりスポーツ、特に球技をしていて、ボールが消えるんですよね。それと激しい動きに全然ついていけなくなったのですよ。まだ段差とか、止まっているものは何とか対応していたのですけど、動きのあるものについていけなくなりました。家にいるときでも、コタツのテーブルとか、夏なら扇風機といった、視界から外れる低い位置の物だと、自分では何も置かれていないようにしか見えなくて、つまずいたりしたのです。」

 「早期に発見して治療したら助かる、というのはないのですか?」

和田 「そういうものではないみたいですね。対処法がないのです。遺伝子レベルの問題とも言われています。だから進行を遅らせる薬はあるみたいですけど、個人によって効く効かないがありますし、実際効かないと言っている人もかなり多いと聞いています。」

根箭 「遺伝子レベルという話が出ましたが、和田さんの場合はちなみに、親族で誰か同じ病気だった人はいるのですか?」

和田 「僕の場合は父が同じ病気で、見えないのですよ。」

 「あ、そうなんだ。」

和田 「はい。父は30歳ぐらいで見えなくなりまして、今は僕よりも光を感じられないですね。僕が生まれたのが父が28歳のときですから、生まれてしばらくして発病したのですね。これも遺伝子レベルの問題ということですけど。今は両親と僕と3人暮らしですけど、母は普通に見えています。」

 「そりゃ、お母さんが結構大変ですね。」

和田 「まあそうですね。母も老眼入ってきてますけど(笑)。でも、親子で見えないというパターンは珍しいみたいです。僕の知っている例では、いとこが同じ病気だとか、遠い親戚が同じだとか、兄弟でという人もいたかな。」

 「和田さんの場合は、兄弟は見えるのですか?」

和田 「あ、僕は一人っ子なんですよ。」

 「あれ?そうなんだ!いいなあ。うらやましい(笑)。」

和田 「そうですか?僕は逆に兄弟がいる人がうらやましいなあ(笑)。一人っ子はやっぱり寂しいですよ。」

根箭 「私も一人っ子ですけど、子どものときはそれで万々歳としか感じていなかったのが、大人になってからは、兄弟がいたほうがよかったと思うようになりました。さてお父さんが同じ病気だったということで、やはり自分が発病したときには、父親のことをまず思い出しましたか?」

和田 「そうですね。それまでは自分が同じ状態になるとは夢にも思いませんでしたけど。実は僕は父と、病気の話を深くしたことがなかったのですよ。だから自分が発病したときも、遺伝という意味ではピンときた部分はありましたけど、その一方で、学校のクラスメートとかを見て、『何で自分だけ見えなくなるねん?』と思ってしまいました。ただそんな僕に対して、両親、特に母親は、負い目をすごく感じていた部分があったみたいですね。」

 「でも、お父さんも最初はビックリしただろうな・・・・・。」

和田 「いや、ある程度は覚悟していたみたいですよ。やはり結婚して子どももできるというときに、目の病気のことがあるから、と。」

根箭 「でもお父さんは、和田さんが生まれたときは見えていたのでしょう?」

和田 「見えてはいましたけど診断は既に下っていたのですよ、網膜色素変性症という。ただ、症状がまだ現れていなかっただけなのです。」

 「あれ!そうなんだ。」

和田 「正確に言うと少しは出ていたのですけどね。晩になると極端に見えにくいというのがあったのですよ。鳥目っていうんですか。それで診察を受けた際、そういう診断が下っていたのです。」

根箭 「お二人とも共通して言えることは、生まれたときから今の状態ではなかったということですね。それで今の身体になって以降、前までは気にもならなかったことが切実に感じられるようになった、ということはありますか?」

 「例えば電車に乗るときとか、渡し板がないと乗れなくなったとか、そういう違いはすごく感じましたね。でも、学校の友達がみんな障害者で車いす乗っているし、小さいときからそういう場面を養護学校で見ていたから、そういう意味では違和感なかったです。だけどいざとなると、例えば階段は絶対のぼれないし、道はガタガタだとすごく感じるようになりましたね。バスも前は普通に乗っていたのが、今ではノンステップでないと乗れなくなりました。」

和田 「僕も道を歩いていて、違法駐輪や歩道と車道の境目がフラットなのが不便だと思うようになりました。駅のホームにいても、落ちないかな?とか。それと僕の場合、父が今でも自分の障害を受容できずにいまして、そのために親を障害者として見てたというのが、あまりなかったのです。自分が見えなくなったとき、やっぱり大学に行きたいし勉強もしたいですから、そのために白杖を持って点字も勉強して、まあ比較的短期間で覚えられましたけどね。」

 「今点字打つの、すごく速いものね。」

和田 「いや、そんなことないですけど(笑)。」

 「事務所で歩いているときも、まるで見えてる人みたいですよ。」

和田 「日ごろ来る部屋というのは、わりと覚えやすいのですよ。例えばこの部屋とか。見えない人は、ある程度狭い空間のほうが、歩きやすいし位置感覚もつかみやすいのです。頻繁に壁とか仕切りがあるほうが、それを頼りに覚えられますから。逆に、例えば梅田の阪急百貨店前コンコースとか、ドーンと広い空間は苦しいですね。方向が全然つかめないし。狭い路地など、頻繁に空間が区切られたほうが、目印が多いからありがたいです。」

 「車いすと視覚障害とでは、求めるバリアフリーの内容が反対ですね。」

和田 「そうですね。よく言われるのが道路の段差ですよね。全然段差がないと、どこを歩いているか分からなくなるから。でも車いすの人は、段差があったら乗り越えられないですね。ただここで一つ言えるのは、視覚障害者の場合、単独歩行では確かに広くて区切りのない空間はしんどいのですが、それは手引きの人を一人つけることで、問題を解決することができます。手引きの人がいれば、あとは付いていけばいいですからね。だけど電動車いすの人は、介護の人が一人ついても、それだけでは段差は乗り越えられないし階段も利用できません。車いすの人にとってのバリアのほうが、より物理的な問題になります。従って結論としては、空間はフラットにしたほうがいいと思っています。」

 「視覚障害者にとってのバリアのほうが、克服しやすいということですね。」

根箭 「さて、お二人ともピアカウンセラーとして、障害者からの相談を受けるわけですが、自分にない障害を持つ人のカウンセリングをするとき、本当に共感するのは難しい部分も、やはりあると思うのですよね。もちろん、障害者同士だから持てる共感も多いとは思いますが。その辺りいかがですか?」

 「一つ私の体験を話しますと、一度バリアフリー体験で、目隠しをして電動車いすに乗ったんです。めっちゃ怖かったですよ〜!何がなんだか分からない。」

和田 「僕も一度、手動なのですけど車いすに乗って、自分でこいだ経験があるんですよ。やはりバリアフリー体験のときですね。それでスロープを上ろうとしたのですけど、傾斜の感じ方が全然違いましたね。歩いていたら全然何とも感じない坂なのですけどね。ですから普通に歩いていてすごいと感じる坂は、車いすの状態ではもうあり得ない坂だと(笑)。あとは段差ですね。3センチの段差を体験してみたのですけど、無理だったですよ。」

 「うんうん、そうでしょう。」

和田 「前を上げてと言われてやってみたら、後ろにこけそうになって(笑)。無理やり行こうとしたけどダメでした。普段は何ともない段差なのですけどね。」

根箭 「お互い相手の障害の疑似体験をすることが、共感できる部分を持つ上で効果的と言えそうですね。でもこういう体験は、健常者が障害者の立場を理解するためにもなるし、実際私も同じ体験をしていまして、そう感じましたね。」

 「それに、確かに障害は違うからその人の本当の気持ちは分からないけれど、場面場面で共感できることもあります。それを大事にして話を聴きますね。それに障害者だから分かるという部分はやっぱりあるし。」

和田 「僕も同じような意見で、同じ障害のほうが、相談に来られた方が話しやすいというのはあると思いますが、障害を持っているということで、いろいろ葛藤したりした経験があるので。やはり障害を持っていたら、この社会で何も葛藤なく生きていくことは不可能ですから、そういう経験がある者同士話をすることが、大変有意義なのではないかと思います。」

根箭 「ありがとうございます。他に何かお話したいことはありませんか?」

 「一ついいですか。世間ではよく、『障害は個性だ』と言われますけど、これについては和田さん、どう思いますか?」

和田 「個性というのとはまたちょっと違うような気がしますけど。特徴と言ったらまだいいですかね?よく『個性を伸ばす』という言い方をするじゃないですか。でも障害って別に『伸ばす』ものではない(笑)。個性というのは、その人の性格とかを指す言葉なので、ちょっと当てはまらないと思います。」

 「特徴とか持ち味という言葉がいいのかな・・・・・?」

和田 「そうですかね。それと僕が一つ感じていることは、そもそも『障害』というこの日本語表記自体がおかしいと思うのですよね。『障』と『害』ですからマイナスにしか見られないですね。だから『害』をひらがなで書く人も増えています。『障がい者』というように。そういう、一般的にマイナスに見られているものをプラスに変えていく、ということを、僕ら障害を持つ者がやっていきたいと思いますし、このピアカン活動もその一つだと思うのです。」

 「そうですよねえ。そう思います。」

和田 「それに『障害』という、マイナスの意味しか持たない漢字の言葉を僕らに当てはめているというのが、この社会を象徴している、つまり、この社会の障害者に対する見方をそのまま表していると思うのです。」

 「それと、よくみんな『障害を乗り越える』って言うじゃないですか。障害は『乗り越える』ものとは違いますよね。」

和田 「いや、本来は『障害』というものは、乗り越えるものなんですよ。障害はマイナスな状態で、乗り越える対象だから『障害を乗り越えてがんばる』となるわけですよ。」

根箭 「でも、確かに『障害』という言葉本来の持つ意味はマイナスですけど、ならばその言葉を、目の見えない人とか、耳の聞こえない人とか、足の不自由な人に当てはめて、『障害』者と言うべきではないわけですよね。」

和田 「それはマスコミがそういう表現をよくするというのがありますよね。ドラマとか24時間番組とかで、障害者を見て健常者が感動して泣くとか(笑)。」

 「そうそう!あれ、見ていて『何で?』とすごく思うのですよ。」

和田 「だから『障害を乗り越えてがんばる』とか、何か健常者を元気付けるために言われているように感じるので、変だなあと思うのです。そうやって障害者を持ち上げるというのは、実は障害のある人とない人を対等に見ていないという証なのだと思います。気分のいいものではないですね。」

 「言い方には確かに違和感を感じますよねえ。」

和田 「そう。だけど全然違和感を感じない人が、やはり多いのですよ。何でかなあ?と思うのですけど。だけど、個々の分かってない人が悪いのではなくて、やはりこの社会構造そのものに問題があるのだと思いますね。そもそもこの社会は健常者中心になっている部分が多いし、どうしても『見える・聞こえる・歩ける』状態から差し引いて、障害のある人を見ますから。先天性の人で、生まれたときから障害者だった人は、別に自分の障害が『乗り越える』ものでもマイナスでもないのですよね。それが当たり前なわけですから。だから、その当たり前の状態を当たり前と見られないとなると、それは周りの環境の問題であって、環境を変えることで、障害もマイナスには見られなくなると思います。」

 「私なんて、これが普通で当たり前だものね。それに、障害があってプラスになることもあると思いますよ。」

和田 「そうですよね。だけどマイナスに見るのがまだまだ一般的であるが故に、『障害者』以外の、もっといい言葉もなかなかないのでしょうけど。」

 「他に言い換えるとしたら、どんな言葉がいいですかね?」

和田 「そうですね。まあ今のところはないから、『害』をひらがなにしたりしているのが現状ですけどね。『障害のある人』と言ったり。」

 「だから、車いすの人、目の見えない人、白杖の人、とそれぞれ言う。」

和田 「ああそうですね。全部いっしょにして『障害者』というから無理がでてくる、というのもあるかも知れませんね。まあ、一つの言葉でいうなら、『社会的ハンディがある人』でしょうか?」

 「『社会的ハンディを持たざるを得ないひと』というのが一番いいかも(笑)。」

和田 「実は先ほどからこういうことを言っている僕も、障害を持った当初は、自分の障害が恥ずかしかったし、嫌だったですよ。今から考えたら、何でそんなふうに感じたんだろう?と思いますけど。でもそのころの感じ方って、やっぱり一般社会を象徴していたと思うのですよ。点字を勉強したり白杖を持ったりすることも、最初はしたくなかったのです。何かそれをしたら、自分が視覚障害者だと認めてしまうみたいだという変なプライドがあって。それを乗り越えるのに、僕は中途ということで、結構時間がかかりましたね。」

 「健常者のほうが、ある意味気持ちの中に障害を持ってるかもしれないね。」

お互い本音トークが弾みました


和田 「ああ、そういうのはあると思いますね。なんかみんなそれぞれ変なプライドがありますね。でも僕は、障害を持つことでこのようなプライドをなくすことができたので、すごくよかったと思いますよ。」

根箭 「健常者中心の社会っていうけど、健常者の方が身体は健常でも妙な自意識に犯されていて人間的に障害者になっていて、障害者の方が自分の姿を受け入れて人間的に健常者になっている感じがしますね。そういう意味では、今の社会は引っくり返して『障害者社会』かもしれないですね(笑)。」

和田 「何か変な社会ですね。障害者は障害者で不便を強いられるし、かと言って健常者も健常者で生き辛さを感じている・・・・・。」

 「だけど、自分の障害を受け入れられない障害者は確かにいるよね。」

和田 「ええいますね。あと、僕がよく聞くのは障害者同士で、例えば弱視の人が全盲の人を差別するとか、点字を習い始めたらある意味敗北のように感じるという話ですね。そういうのを乗り越えられなくて、いまだに点字を習えない人もいるみたいですし。僕は乗り越えられて本当に良かったと思います。」

 「うん、本当にそうですね。」

根箭 「ではそろそろ時間になったので、これで終わります。まとめ方の下手な進行で申し訳ありません。聞いていて非常に勉強になる話でした。どうもありがとうございました。」

(文責:根箭)

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10. 『点検!支援費制度』講演を聞きました

広報誌編集部

 去る10月13日(祝)、総合福祉センター(ヒューマインド)にて、尾上浩二氏による、『点検!支援費制度』の講演が行われ、聞きに行ってきました。当日は大勢の方々が参加していました。

質疑も活発におこなっていた参加者の方々


 講演は二部に分かれ、第一部で尾上浩二さんの講演、そして第二部では大阪府下各市町村の現状の報告が行われました。
 第一部の尾上氏の講演では、冒頭、今年1月に行われた、厚生労働省に対するホームヘルパー上限抗議行動について述べられました。この事件がきっかけとなって、支援費に対する関心度、そしてマイナス度が激増したということです。最終的には勝利を収めた抗議行動でしたが、尾上氏は「何も現状をゼロからプラスに進展させたわけではなく、ものすごいマイナスだったものを、ようやくぎりぎりゼロに戻したに過ぎない」と、厳しい表情で語っておられました。
 次に、支援費制度になってどう思うかを当事者市民に聞いたアンケート結果が報告されました。その内容は、「7割がたの人は、措置制度時代と変わらないと評価している。良くなったと答えているのは、日頃から直接障害者運動に関わっている人など、ごく一部である。約1割の人が悪くなったと答え、中でも視覚障害者の移動介助について、利用しにくくなったという声が多い」というものでした。
 支援費制度の問題点としては、今述べた視覚障害者の援助に関してのほか、利用者本人の自己負担額の問題が挙げられました。これは、ガイドヘルプの自己負担が、他のホームヘルプと同じ仕組みの自己負担になったため、本人所得のみならず、扶養義務者の所得からも徴収されるようになったというものです。この仕組みのもとでは、利用者は外出をするのに、扶養義務者(家族)の顔色を窺わなくてはならなくなります。本人の所得のみからの徴収となれば、周囲の目を気にすることなく外出できるのです。また、『車を使った介護では、運転中は介護にあたらない』という規定についても、「公共交通機関はどの地域でも必ず便利だとは限らないではないか」と苦言を呈されていました。そのほか、「選べる制度というが、選べるだけの選択肢があるのか?」という疑問が出され、これは以前からもよく言われていたことです。さらに、昨今の各市町村の厳しい財政状況の中、「利用者一人一人のニードを満たす財源があるのか」、「情報提供や相談支援の体制は充実しているのか」、「利用者の声が十分に反映されるような環境が整備されているのか」などという問題点が挙げられていました。
 国は支援費制度を、福祉における戦後最大の改革であると謳っています。しかしそのわりには、約7割もの人が「改革前と変わらない」と評価しているのが現状で、厚生労働省は今年5月、「障害者の地域生活の在り方検討会」を設置しました。5月26日に第一回会合が行われ、以後、ほぼ一ヶ月に2回のペースで会合が行われているということです。「これからも、検討会の議論に注目し続けていきたい」と熱っぽく語りながら、尾上氏の講演は終わりました。

尾上浩二講師


 さて、第二部では各市町村の現状が報告されましたが、報告に参加したのは、大阪市、茨木市、豊中市、堺市、そして八尾市の各障害者団体です。
 紙面の都合上、全部の掲載は割愛させてもらいますが、豊中市からは、「支給時間は最高で月194時間だが、呼吸器を使用している人に対しては、最高で月408時間までの支給が認められている」、「事業所数が不足している」、「ケアマネジメントの質に対して疑問の余地がある」、そして「生活支援センターの位置づけがあいまいである」といったことが報告されました。ほかの市についても、それぞれの支給時間や相談体制の報告がなされ、最大支給時間(上限)の問題や行政との交渉の問題、それに利用者家族との関係の問題等についても言及されていました。

各市町村の現状報告

 支援費制度がスタートして約7ヶ月、まだまだ課題は山積しているというのが現状です。十分な聞き取り調査や情報提供も行われないまま、なかば見切り発車的にスタートした感は否めず、そのぶん、今後の検討会でより大きな成果が上がることが期待されているのだと、強く感じました。  

(文責:根箭)

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11. えりとママの珍道中記

えりママ

 アリは、一生懸命冬に備えて自分の巣に食べ物を運んでいます。えりとのんびり歩いていたら、そんなことを教えられます。そういえばママも小さいとき、地べたに座り込んで、そんなアリたちの姿を、時には、わざとお菓子を落としてみたり、手や細い枝で穴を掘ってあげたりして、よく一人で遊んでいました。(でも、一生懸命にいるアリたちにとっては、迷惑な存在だったでしょうね)
 
自然界では、一歩一歩冬に向かいつつある今日この頃、みなさま、お元気でしょうか? えりも、休まずに学校に通い、家に帰ってきては、ママと漫才をしています。ママは、えりから返ってくる言葉にドギマギしたり、大笑いしたり、楽しい我が家です。「あんた、どこで、そんなん覚えてくるの」と、言いたくなることも、あります。

七才のえりと、人生を語る、の巻
 
ある日、えりとふたりで、、鳳蘭さんの舞台のビデオを見ていました。そして、こんなことを言い始めました。
エ「鳳蘭様って、きれいでかっこええな。すてきやわ。でも、だんだんおばあさんになってきたら、どないしはるんやろ? バレエの先生やなくって、ミュージカルの先生になるんかな?」(ママは心臓が飛び出そうなくらい、ドキッ)マ「蘭様はずーっと、舞台に立ってくれはると思うよ。だって、ママたちの憧れの人だし、ね。これからもずーっと、素敵よ。」
エ「わたしも大好きだよ。でも、おばあさんになったら、わからんとおもうなあ。」(このあと、九十三歳の蘭さんの実演あり・・・・でも、とってもかわゆかったでしゅ)
そして、挙句の果て「鳳蘭様とママ、どっちがはよ、ろかー。でも、なるべく、長生きしといてほしいなあ。」ですって。はいはい、もう、二百年くらいは二人とも、生きております。
あとで、えりに「おばあさんになるってどういうこと?」って聞いてみました。 
「より、元気がなくなること、ママみたいに体が痛くなること。でも、ね、こんな人もいるんだってー、いま二十歳やのに、早く四十歳になりたいとか、いま三十歳やのに五十歳になりたいとか言う人もいるねんテー。この間テレビで言うてたわ。」
 ふうーん、ところで、あんた、ほんまに小学二年生?

いやな電話、の巻
 
最近、セールスなどの電話がよくかかってきます。それも、いかにも知り合いのように「○○ですが、おかあさん、いらっしゃいますか?」(中には、子どもが出ると、○○ちゃんと呼びかけ)と、かかってくるものだから、電話に出たえりも、「ママー、○○さんから、電話やでー」私は私で「えー、○○さんって、だれ?」と考えながら、トーキングエイドで出てみると、きられてしまうか、はたまた、「おかあさまは、いらっしゃらないの」と、しつこい。いくら「母は、私です」と、答えてもダメで、こっちから、きってしまうか、どっちかです。
 きっと、私のことをぜんぜん知らないセールスのが(子どもの名前を知っているのは、学校の名簿からかな)、ロボットのような機械音に戸惑い、びっくりされてしまっているようだけれど、何とも後味の悪い、いやな電話です。
 電話は、相手が見えないから、怖い。特に言語障害のある私は、小さいときから大嫌いでした。親から「わからないから出るな」とか言われ、ちょっぴり悲しい気持ちになったことをおぼえています。
 
今時、通信手段は、多種多様です。そうそう、この間はパソコンで、チャットなるものを体験しました。初めてのことだったので、ウロウロしていましたが、何とか、四国の愛媛の女性と、三時間もお話ができて、とっても楽しかったです。
 
私は、という個性を持っていますが、どこにでもいるようなおばさん(経験不足で世間知らずのところは認めますが)、人間であり、母であり、女なのです。

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12. 摂食・嚥下セミナーA

介護・事務職員  川崎高弘

 前号に引き続き、2003年7月12日に国立療養所刀根山病院で行われました摂食・嚥下セミナーの報告を載せたいと思います。前回は誤嚥のリスクを減らす為の摂食・嚥下障害対策について報告しました。今回は摂食・嚥下障害がある人の為の食事について報告をしていきたいと思います。

 摂食・嚥下障害があると食べ物の残りが喉の奥にたまりやすくなり、誤嚥性肺炎を引き起こしたりするので、毎日の食事もツルッとして食べやすく、パサパサしていない食事になってしまいます。しかし食事は毎日のことなので「安全」かつ「何度でも」作れて「おいしい」ことが理想になります。では嚥下しやすく、なおかつ安全でおいしい食事とはどんなものでしょうか。

 嚥下しやすい食べ物の条件にはいつくかあります。
@密度が均一(ミキサー・フードカッター・すり鉢・裏ごし器の利用)
A適当な固まり(片栗粉・ゼラチン・増粘剤などの利用)
 ※寒天は不適
B流動性があるもの(ゼラチンゼリー・プリン・ババロアなど)
 ※こんにゃくゼリーは危険
Cべたつき・へばりがない
などです。では種類別に調理の工夫例を見ていきたいと思います。


 穀類はまず食べやすい主食を選びます。米飯→軟飯→全粥→つぶし粥の順にやわらかくなります。全粥などは食べているとき唾液がまじってデンプンが分解され「とろみ」がなくなることがあるので、箸やスプーンで混ぜすぎないなどの注意が必要です。パンの場合はパン→フレンチトースト→パン粥の順でやわらかくなります。

 魚類はタラやムツなどの脂ののった魚の方が喉ごしがよく比較的食べやすいです。脂の少ないパサパサした魚は卵や大和芋などをつなぎにしてすり身で食べるとよいと思います。焼き魚よりは煮魚・蒸し魚のほうが食べやすく、刺身は「たたき」にすると食べやすいです。

 
 肉類は鶏肉がやわらかく、「もも」の部分が食べやすい場合が多いです。調理する際に肉たたきなどでスジをなくすこともよいと思います。ひき肉は「つなぎ」でまとめて煮込みハンバーグ等にするとよいです。

 卵・大豆製品はなかでもプリン・卵豆腐・温泉卵・茶碗蒸しあんかけが食べやすいです。卵とじにする場合は半熟程度が一番食べやすいです。豆腐は木綿よりも絹ごしのほうが水分が多いので適しています。

 イモ・野菜類ですが、イモやかぼちゃなどは混ぜ合わせると粘りが出やすいので、マヨネーズやだし汁を加えて調理します。また冷凍食品の方が比較的粘りが少ないです。野菜は必ずクタクタ煮込みます。大根・人参・カブなどの根菜の方が葉菜よりも食べやすいです。葉菜を調理する場合は粥に混ぜたり、ゆでてマヨネーズで和えたりするといいです。

 果物類はやわらかく煮たり、ゼリーなどにします。牛乳も増粘剤などでとろみをつけるか、ゼラチンゼリーにします。 
 嚥下機能改善のために自宅でできるものを二つ紹介します。

@嚥下体操
 食前に行い首や口のまわりの緊張をほぐします。ゆったりと深呼吸をしましょう。息を吸うときはお腹が膨らむようにし、吐くときは口を少しすぼめてローソクの火を消すようにします。首を左右に傾け、大きく回します。両肩をすぼめるようにしてから、すっと力を抜きます。口を閉じたままほっぺたを膨らませたり緩めたりします(2〜3回)。口を大きく開いて舌を出したり引っ込めたりします(2〜3回)。パパパ、タタタ、カカカ、ラララを発音します。最後にもう一度深呼吸をして終わりです。
 こうすることによって首や口の緊張がほぐれるので嚥下の訓練になります。
 
Aアイスマッサージ


☆調理のポイント
注)トレーニング食とは病院などで出されている嚥下食のことで、刀根山病院のトレーニング食1はゼリー状で1000キロカロリー、トレーニング食4はスライスカット食で1800キロカロリーです。

 2回にわたってセミナーの報告をしてきました。普段の食事のときに飲み込みにくく感じたりしたら、一度病院で嚥下テスト(レントゲンで正しく嚥下ができているか調べる検査)をしてもらうのも一つの方法です。
 記事は参考程度に考えてもらって、その人にあった方法が見つかるといいと思います。

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13. ぼくの日曜日

海帰優人

尼崎、西宮、芦屋、神戸

 最近、ぼくの足はもっぱら西へ向かう事が多い。
 その大きな理由の一つは、仁川の阪神競馬場から我が家まで歩いて帰る事が多く、なんとか近い道や楽しい道をさがすために暇があればそちらへ車いすを走らせるからだ。
 なぜ、競馬場から家までほぼ4時間かけて歩くのか。もともと歩くのが好きなこともあるが、それだけではない。競馬をしていると、競馬以外のお金にはすこぶるケチになる。負けるときはもちろんだけれど、勝ったら勝ったでなぜかよけいに始末したくなる。おまけに馬券は、100円単位で購入する。他の買い物をしていても、よけいに100円でも安いものを探しまわる。安くて良い品物が手にはいるとにんまりして、「この○○円で馬券が何枚買えるかな。」とか思う。なお、ぼくは、競馬と他の生活費は財布をわけている。競馬で勝ってもその夜の介護者にジュースかアイスクリームをおごるくらいで、生活費には使わない。勝ったら勝ったぶん、競馬用の財布にもどす。一応は○○○円たまったら旅行に行くとか、衛星放送つけるとか、目標は持っているのだが・・・・・。
 
 さて、本題にもどる。ぼくは、びみょうなバランスで電動車いすに乗っている。足が宙ぶらりんになったり、上半身が傾いたりすると、運転がしづらくなる。通りがかりの人に、体勢をなおしてもらうことも多い。また、ケイタイラジオを時計がわり聞きながら歩くことも、多いのだが、番組の好き嫌いが、はげしいので、ダイヤルをかえてほしいこともある。急用を思い出して、ケイタイ電話をかけてほしい事もある。
 
 どうも、最近になって、気付いた事がある。
 尼崎や、西宮や、芦屋、神戸などを歩いていて、ものをたのむと、みんな、なにげなく手を貸してくれるのだ。大阪など他の地域に比べると、少し違う。大阪市内などを歩くと、以前よりも無視する人達の割合が増えた気がする。
 考え過ぎかもしれないし、勝手な思い込みかもしれないけれど、震災の体験がどこかで、生きているのではないだろうか。あの体験で大切な人を亡くされた方が、たくさんいるだろう。恐怖から心を病んだ方もたくさんいるだろう。経済的な大きな打撃をうけた方もたくさんいるだろう。だから、ぼくの見方は甘いかもしれない。いいところだけをすくいとっているのかもしれない。だけど、声をかけると必ず、振り返ってくれる。かかわった後は、あたりまえのように去っていく。とにかく気持ちがいい。もし、これが、震災の財産だとしたら、様々な苦労や悲しみと合わせて根づいたものだから、よけいに大切にしてほしいと思う。
  
 競馬とは関係なくても、ぼくの足は、西へ西へ向かうだろう。

ある街角

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14. 遠くなくても行きたい

西九条舞

その25 なんばパークス
 10月7日に大阪球場跡に『なんばパークス』がオープンしました。早速、現地に行ってチェックをしてきました。
 『なんばパークス』は言うまでもなく、難波にあるので地下鉄に乗ってなんばで降りるのが一番です。
 北急沿線の人はなかもず行きに乗って、なんばで降りてください。もちろん、乗り換えはございません。阪急沿線の人は梅田で御堂筋線に、モノレールの沿線の人は千里中央で乗り換えてください。
 また、なんば駅では先頭から5両目の前から2番目のドアにいるとエレベーターが近いです。
 エレベーターで改札階まで上がると目の前に見えている改札口を出て右に曲がり、地上行きのエレベーターに乗ります。
 エレベーターを降りて自動ドアを出ると、すぐ左にスロープがありますので、スロープを下りて、御堂筋を右に(つまり車の向きと同じ方向)曲がります。そのまま難波西口交差点まで進み、横断歩道を渡り、高島屋の方に入らないで、そのまままっすぐ進みます。(写真(1))

(写真1) 地下鉄の入口の階段に向かって進んで下さい。

 左手に高島屋の建物、右手に阪神高速の高架橋を見ながらまっすぐ進むと難波中交差点があります。その手前に大阪難波郵便局があり、その向かいにエレベーターに乗って2階まで上がり、スロープを上がって『なんばパークス』に進みます。
 また、難波中交差点の横断歩道を渡ってすぐのところにもエレベーターがありますので、こちらを利用しても構いません。
 『なんばパークス』に到着しました。ここの1階は駐車場の入口と隣のなんばCITYとの間の通路に面した部分に「なんばカーニバルモール」というのとMBSラジオのサテライトスタジオがあるだけで、『なんばパークス』のメインは2階以上の部分で、最上階の8階へは2階からしかエレベーターがありません。
 もっとも同時にできたパークスタワー(30階建て)の地階にJRAのウインズが入っているので、こちらの方が気になる方は1階からのエレベーターで地下に下りるしかないのですが…
 では2階の入口から入ってみましょう。通路を通ると両側に2棟の建物が建っているような感じになります。「キャニオンストリート」(写真(2))の上は吹き抜けで、上を見れば空が見えます。この階で私が気になったのは焼酎・泡盛の専門店です。各県の焼酎や泡盛に至っては島ごとにコーナーがあって普通の酒屋さんでは絶対に見られない焼酎・泡盛があってカメラがなかったら買っていたくらい品数豊富です。

(写真2) 8階から2階のキャニオンストリートを見るとこんな感じ


 また8階まで続くエレべーターは突き当たりに別々の場所で2ヶ所ありますが、誰もが見やすい場所にあるシースルーエレベーターよりちょっと奥まったところにあるエレベーターの方があいてそうな印象でした。
 4・5・6階に分かれてあるスポーツ用品店も品数豊富で「スポーツって何ですか?」というくらいスポーツをしない西九条ですら何かしようかなと思ってしまいます。
 また5階にはクッキングスタジオやワイン店があったり、6階より上の階にはレストランのフロアで目新しいものからどこにでもあるものまでそろっています。
 7階に「大阪ヌードルシティ」というのがあり、全国各地の御当地麺を10店、インスタントやお土産用の麺が数百種類売っています。ラーメンでなく、御当地麺と書いたのはラーメンだけでなく、うどんやそばなども置いているからです。
 店の方は「遠くなくても行きたい その22」(2003年2月に発行)で採り上げた泉ヶ丘ラーメン劇場よりも狭く、バリアフリー度は低いという印象でした。
 7階にはもうひとつ、南海ホークスのメモリアルギャラリーがあります。南海ホークス時代のパネル展示やトロフィーなどが展示されていて、往年の南海ホークスを知る人にはおすすめです。
 8階は飲食店は1店舗しかないですが、これは階が上がるごとに庭の部分があり、商業施設の面積が少なくなるため。ガーデンへは普通に出入りができますがスロープで上の階とつながっていないため、上の階のガーデン部分に行く場合、エレベーターで上がってガーデン部分に行くことになります。
 また車いすトイレは2階・5階・7階とありますが、2階のトイレは幼児用の和式トイレがあり(写真(3))、使いにくい人がいるかもしれません。

(写真3) トイレ内の撮影なので分かりにくいとは思いますが、
横の手すりで車いすトイレだと信じて下さい。(2階のトイレ)

 そこで利用したいのは隣のパークスタワーの2階・7階にある車いすトイレ。通路でつながっているので、わざわざ1階に行かなくても行けますし、『なんばパークス』の混雑が嘘のように静かですので、必然的にトイレ自体もあいていて利用しやすいです。
 他にもファッション関係のお店や雑貨もたくさんありますので、新しいものが好きな方、一度行ってみてはどうでしょうか?

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15. CIL豊中近況

事務局

 このコーナーは、当センタ−ホームページの「CIL豊中近況」というところから抜粋しました。事務局のようすが少しでも分かっていただけたら嬉しく思います。

≪9月≫
2003/9/7 日曜日の体制が少し変わりました
 今までは日曜日といえば職員も少なかったのですが、今月からちょっぴり体制が変わりました。第一と第三のみ、ピアカウンセラーがみんな集まって、日頃のことをいろいろ報告しあうようになったのです。
 加えて広報誌も、従来は編集員だけでやっていましたが、生活支援事業部の職員全員で作り上げていくことになりました。

2003/9/12 送迎畑も忙しく・・・・・
 日頃、あまりこのコーナーでは話題に出てきませんが、介護者派遣に負けないくらいCILで忙しいのが、送迎(リフトカー)サービスです。
 このところも、受けた電話の多くは送迎依頼でした。人も、そして車そのものも大変ですが、エールを送りたいです。

2003/9/19 出払っております
 本来なら、事務所内に職員がひしめいているはずの金曜日。しかし今日は思いの外静かです。15:20現在で3人しかおりません。ほとんどの人が、介護に送迎に出払っているためで、かくいう私もあと1時間少々で介護のため抜けるわけなんですが・・・・・。

2003/9/26 9月事務局会議
 今月の事務局会議が執り行われました。その中で、11月より事務所が移転することが理事長より告げられました。
 
≪10月≫
2003/10/1 新人コーディネーター3名、始動
 本日より、新人のコーディネーターが3名入られ、早速忙しく仕事に就いておりました。急激な利用者増加に対応するため、事務局としても調整担当者の増員は欠かせません。

2003/10/8 クリスマスパーティー会議
 これまでにも何回か行われましたが、今日クリスマスパーティー会議が行われました。今日は設営担当者による会議で、当日の飾り付けの方法について、かなり具体的な案がまとまりました。

2003/10/19 いよいよ引っ越しの段取り作りを
 今日午後から生活支援事業部会議が行われ、引っ越しの段取りが具体的に発表されました。そしてその後、ILPルームでは早速備品の梱包作業が・・・・・。作業は始まっています。

2003/10/26 臨時総会&クリパ出演者会議
 今日は午前中、臨時総会が行われました。これは、きたる事務所移転の詳細を、皆様にお伝えするためです。新しい電話番号も決まり、いよいよ移転を間近に感じるようになってきています。
 さて、夕方にはクリスマスパーティーに出演して下さる方に事務所に来ていただいて、当日のプログラムの内容に関する打ち合わせが行われました。

2003/10/29 ダンボールも到着
 点字名刺の注文が一気に届き、広報誌も追い込み時期に入ってきています。また月末で集計ラッシュの時期にもなっておりまして、忙しい毎日ですが、何と言っても一番忙しいのは引っ越し。今日はダンボールが届きました。事務所の中も、よく見ると少しづつ物が減っていっております・・・・・。

≪11月≫
2003/11/1 引越し作業
 明日の午前中には引越し屋さんが来ることになり、今日、事務所内の主だった物をほとんど梱包する引越し作業が行われました。見る見る積み上げられていく段ボール箱の山。これを見て、ようやくこの事務所から去る時が本当にやってきたのだ、と実感しました。

2003/11/2 稲津町の事務所での最後の仕事
 本日午前中に、予定通り引越し屋さんがやってきまして、あっという間に全部運んで行きました。私自身は今までの事務所で待機兼業務をしていたわけですが、稲津町の事務所での、これが最後の仕事となりました。
 最後、かぎをかけて事務所を去る時にも、何とも言えない名残惜しさが胸中を漂っていました。5年半、本当にお疲れ様でした。
 明日からいよいよ、みんなが新事務所に集合します。

2003/11/3 いよいよ新事務所初出勤
 正確にいうと今日は祝日で事務所も休みなので、『仕事』をしていたわけではないのですが、今日、完成後の新事務所に初めて入りました。真新しい事務所、広々としたスペース、思ったよりもすぐに慣れそうな気持ちにもなりました。今日は荷物の片付けのみでした。

2003/11/4 新事務所開設パーティー
 ようやく一通りの移転作業を終え、事実上新事務所が開設した今日、夕方に職員および関係者の方が集まって、開設記念パーティーが行われました。
 事務所が所属している建物の大家さんからも、きれいな花束を頂きました。明日からいよいよ新事務所で業務開始です。

2003/11/5 祝:新事務所営業開始
 職員はセッティングのため2日から来ていましたが、正式に営業を開始したのは今日で、みなさんフレッシュな気持ちでそれぞれの仕事に就いていました。
関係団体の方からお祝いもいただきまして、本当に有難い限りです。今日は早速「豊中市バリアフリーチェック」の構想会議が行われるなど、初日そうそう、活発に動いていました。

2003/11/6 2日目はもう平常どうりに
 新事務所営業2日目、今日はもう、引越しムードはほとんどなく、通常の事務所の姿になっていました。新しい事務所での日常の姿が、いよいよスタートです。事務所が2つに分かれて広くなりましたが、それだけに、介護で職員が出払っている時はいっそう広々と感じられるようになりました。

2003/11/10 通りがかりに訪れる人も
 前の事務所はあまり人が通るところではなく、そのため道ゆく人が「何だろう?」と思って足を止めるという光景は、めったに見られませんでした。今の場所は、少し奥まっているとはいえ、駅前商業施設の一部です。そのため前の通路を歩く人も多く、思わず事務所に入ってくる方もおられます。

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16. ☆☆☆サービスのご案内☆☆☆

事務局

ヘルパーステーションCIL豊中
TEL06(6840)8195 FAX06(6840)8196

支援費制度居宅介護サービス(身体・知的・児童)  
支援費制度によるホームヘルパー、ガイドヘルパー派遣。
●サービス提供範囲 豊中市及び近隣地域
●サービス提供時間 24時間365日

介護保険訪問介護サービス  
介護保険によるホームヘルパー派遣。
●サービス提供範囲 豊中市
●サービス提供時間 24時間365日

介助サービス(10月改定)  
 介助が必要な方の自立支援を目的に、地域のささえあいに基づく登録制市民互助活動です(公的福祉制度外のサービス)。
●対象者 原則豊中市在住の障害者
●介助料(謝礼)
 ・一般介助  1時間       1,050円
 ・宿泊介助         1回(12時間以内) 7,200円
  延長分は上記一般介助で計算。
*いずれも介助者の実費交通費(市内上限800円)を負担していただきます。
 ・旅行介助        1泊(24時間)  12,400円
  延長分は6時間(3,100円)単位で加算。
  交通費及び宿泊費は利用者負担です。
●キャンセル料 前日まで無料。当日は半額です。(上限10,000円)

豊中市障害者自立支援センター
TEL06(6857)3601 FAX06(6857)3602

豊中市障害者生活支援事業(無料)
 障害者やその家族等の相談等を支援します。
●ホームヘルパー、デイサービス、ショートステイなどの利用援助
●社会資源を活用するための支援 ●社会生活力を高めるための支援
●ピア・カウンセリング      ●専門機関の紹介

自立生活体験室(12月完成予定)
 自立生活をめざしている障害者の方が、実際の生活に近い環境で、自立生活を体験してみる部屋です(介助者の方は無料)。
●宿泊利用 1泊1,500円 ●デイ利用 1回(5時間まで)750円
*デイ利用の場合、ご利用出来る時間帯は9:00〜18:00です。

豊中市障害者外出支援サービス(10月改定)
 リフト付自動車を運行し、一般の交通手段を利用困難な障害者の外出を支援します。
●利用対象者は豊中市に在住し、次に該当する人です。
 @下肢・体幹障害1・2級で車いす等を使用している人。
 A四肢障害1級で車いす等を使用している人。
 B腎臓機能障害で透析治療を受けている人。
●利用できる日時
 午前9時から午後5時(火曜日、日曜日、祝日、年末年始12/29〜1/3を除く)。
●利用目的
 社会参加を目的としますので、特に制限はありません。
●利用回数 月4回まで利用できます。
●利用料・区域
 @豊中市内     片道 500円  往復1,000円
 A特定区域・施設  片道 1,000円  往復2,000円
[特定区域は池田市・吹田市・箕面市・尼崎市・伊丹市・大阪市(淀川区・西淀川区・東淀川区・北区・旭区・城東区・都島区・此花区・西区・福島区・中央区・浪速区・港区)] 特定施設は星ヶ丘厚生年金病院
●キャンセル料 当日キャンセル500円
●同乗者について
 必ずしも必要ありません(利用者の必要に応じて同乗をお願いします)。

点字名刺
ノーマライゼーションを目的に点字名刺の作成販売。
●既存名刺への点字打ち込みの場合 10枚150円
●片面名刺印刷と点字打ち込みの場合 10枚300円
●両面名刺印刷と点字打ち込みの場合 10枚350円
ロゴ・イラスト又は写真入りの場合は10枚につき50円の加算となります。
送料は一律270円です。

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17. 事業活動報告(2003年4月〜9月)

事務局

1.障害者の自立生活に関する相談及び支援事業
(1)豊中市障害者生活支援事業(受託事業)
  障害者やその家族等の相談支援。
  相談支援件数 270件
第1回自立生活プログラム講座 テーマ「まずは自分から」
全5回 受講生4名
  自立生活体験室 宿泊利用13回(総38泊)、デイ利用61回
広報誌「CIL豊中通信」
 第5号発行 約900部(点字・音訳・メール版含む)
 第6号発行 約1,100部(点字・音訳・メール版含む)

2.障害者及び高齢者の介護等在宅福祉事業
(1)支援費制度居宅介護(身体・知的・児童)
支援費制度によるホームヘルパー、ガイドヘルパー派遣。21,407時間
(2)介護保険訪問介護
  介護保険による訪問介護。904時間
(3)介助サービス
  地域の支えあいに基づく介助者派遣(登録制市民互助活動)。1,814時間。

3.障害者の移動支援事業
 (1)豊中市障害者外出支援サービス事業(受託事業)
リフト付自動車を運行し、一般の交通機関を利用するのが困難な障害者を支援。306回

4.福祉に関する人材育成事業
ホームヘルパー養成研修3級課程  修了者14名
ガイドヘルパー養成研修全身性課程 修了者41名

5.点字名刺事業
 (1)点字名刺
  点字名刺の作成販売 12,143枚。


1.障害者の自立生活に関する相談及び支援事業
(1)豊中市障害者生活支援事業(受託事業)
  障害者やその家族等の相談支援。
  相談支援件数 270件
第1回自立生活プログラム講座 テーマ「まずは自分から」
全5回 受講生4名
  自立生活体験室 宿泊利用13回(総38泊)、デイ利用61回
広報誌「CIL豊中通信」
 第5号発行 約900部(点字・音訳・メール版含む)
 第6号発行 約1,100部(点字・音訳・メール版含む)

2.障害者及び高齢者の介護等在宅福祉事業
(1)支援費制度居宅介護(身体・知的・児童)
支援費制度によるホームヘルパー、ガイドヘルパー派遣。21,407時間
(2)介護保険訪問介護
  介護保険による訪問介護。904時間
(3)介助サービス
  地域の支えあいに基づく介助者派遣(登録制市民互助活動)。1,814時間。

3.障害者の移動支援事業
 (1)豊中市障害者外出支援サービス事業(受託事業)
リフト付自動車を運行し、一般の交通機関を利用するのが困難な障害者を支援。306回

4.福祉に関する人材育成事業
ホームヘルパー養成研修3級課程  修了者14名
ガイドヘルパー養成研修全身性課程 修了者41名

5.点字名刺事業
 (1)点字名刺
  点字名刺の作成販売 12,143枚。

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18. 投稿作品


オンステージ あの人がうたう 恋の歌
まっ白な日々を 切なく


今日もまた 成長してゆく 子のに
いついつまでも 平和を願う

このコーナーでは、みなさんからの短歌、俳句、詩などを募集しております。詳しくは編集責任者 大友まで。
みなさまどんどんご応募してください。

乱タロー

お知らせとお詫び

いつも広報誌をお読みいただき、ありがとうございます。
今号より、新しい連載記事として、『地域の作業所の活動をします』と、『おおいに語ろう!ピア対談』を掲載いたしました。前者は毎号掲載し、もほぼ毎号掲載することを基本にしたいと思っております。どうぞご愛読下さい。
 なお、より連載記事となっておりました、『上虎の自分史』は、今回、著者の都合により、中止させていただくことになりました。大変申し訳ございませんが、また次号では復活したいと思っております。何卒ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

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19. 編集後記

編集責任者  大友章三

 いつもCIL豊中通信をお読み頂きありがとうございます。
 11月になり、稲津から蛍池に引っ越しをしました。新しい事務所で職員は張り切って、仕事をしております。
 ただ、引っ越しの動きで、広報誌の原稿作成や編集の作業が止まったり、遅れたりして、私が受け持ってる原稿は、〆切を過ぎてからできあがってしまいました。何かと準備不足の状態で進んでおり、封筒に押されている当センター住所印も、旧住所のままになっているものが多数あります。誠に申し訳ございません。
 でも、せっぱ詰まってできた原稿は、良い原稿だと自負しております。
 これから新しい自立生活プログラム体験室のオープン、クリスマスパーティ、市民講座、自立生活プログラム講座とやることはたくさんあります。
 多くの方が参加する行事が続きますので、私たちも張り切って、準備をしたいと思っています。みなさんの参加を首を長くして、お待ちしております。
 これから寒くなり、厳しい季節となります。風邪などをひかないようにして、楽しいクリスマスとお正月をお迎え下さい。

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